りぷろぐ

せつな系創作団体「Repro」のBlogです!

『億男』でお金と幸せについて考えた

一つ前の記事で「明けましておめでとうございます」なんて言ってますが

今やもう、今年もあと2ヶ月といったところ。

長らく更新ができておりませんでした。

社会人は忙しい。でも忙しさを言い訳にしたら、出来ることすら出来なくなっていく。

小説の形式にこだわらず、ブログでもTwitterでも感じたことを発信し続けることが

表現が老けない秘訣なのかもしれません。

 

さて、『億男』という小説を読みました。

弟の借金の肩代わりをしたことで、妻とは別居し家族がバラバラになってしまった一男は、借金返済のために昼は図書館司書、夜はパン工場で掛け持ちで働いている。ある日、一男は3億円の宝くじが当選し億万長者となり、借金返済に夢膨らますが、ネットを覗くと大金を手にした人の悲劇ばかりが目につく。不安に駆られた一男は、大富豪となった学生時代の友人、九十九のもとを訪ねる。15年ぶりの親友との再会に一男はすっかり酒に酔ってしまう。しかし、酔いつぶれた一男が目を覚ますと九十九は3億円とともに姿を消していた。一男は九十九の行方を追いながら、大金をめぐり家族や友情のあり方を探していく。

 

あらすじはwikipediaより。

現在、映画も公開されています。

主人公は佐藤健と高次一生。映画の方も見に行ってきました。

 

小説でも映画でも共通して問われるのは、

「お金と幸せの答えとは?」ということ。

縦76ミリ・横160ミリ・重さ1グラム。

これは1万円札のサイズですが、こんな紙を貰って我々は生きています。

この紙が増えたり減ったりするだけで我々は一喜一憂し、

ときには人生を狂わせてしまうことだってあるのです。

 

「お金では買えないものもある」「お金で買えないものの方が大切」

口で言うのは簡単です。

でも、それって本当でしょうか?

少なくともは、お金の本当の力を知らずに今まで生きてきたと思います。

このような言葉は一見もっともらしく聞こえますが、

実はお金について、ほとんどの人がその力を芯から理解していないのではないでしょうか?

 

億男』になった主人公の一男は、親友だった九十九に三億円を持ち逃げされ、

九十九の行方を追います。

その中で九十九と関係のあった人たちと出会い、お金についてのそれぞれの考えに触れていきます。

 

「お金と幸せの答えとは?」

その答えについて『億男』でははっきりとした回答を文字にすることはありませんでした。

人によってはその部分を物足りなく思う人もいるかもしれません。

でも、主人公の一男は多くの出会いの中で自分なりに答えを出し、

前へ進んでいきます。

 

「それで一男くん。お金と幸せの答えは見つかったかい?」

「まだ分からない。でも君は、たどり着いたんだろ?」

「そうだとも、そうでないとも言える。お金と幸せの答えは、すぐに形を変えていく。

それを決めるのは、僕らなんだ。だからこそ僕は、もし人を疑うか、信じるかのY字路があったとしたら、信じる道を行こうとふたたび思えるようになった」

 

これは一男と九十九のやり取りですが、

九十九の言うように答えはすぐに形を変えていくもの。

それでも考え続け、答えを探し続けることが重要で、

「お金なんて」と思っているうちは決して答えには至れない。

もっとお金のことを考えよう。そしてもっとお金のことを愛せ。

そんなことを思いました。

 

小説としても映画としても面白かったです。

「理不尽な理由で何かが行方不明になり、それを探す旅に出る」みたいな構造が

すごく好きで(初期の村上春樹作品ってそんな感じ)、

今回の内容はその意味で好みそのもの。

 

あと映画では九十九の知り合いとして、藤原竜也が怪しげなお金のセミナー代表役で登場するのですが、さすがの演技でした。

諭吉握りしめてる画があんなに似合う役者っていないと思う。(ふりう)

新年のご挨拶と雑記

 明けまして、おめでとうございます。

 どうも淡夏です。

 先日ブログをアップした時にはまだ平成29年だったのに、数日経っただけで平成30年になっているとか。

 改めて考えるとただいつも通り時間が流れただけなのに、何か大きな変化があったように感じてしまうのが不思議です。

 人って、一分毎、一時間毎、一日毎の変化には鈍感なくせに、半年、一年、十年のように“年”の変化には異常に敏感なんですよね。

 その“年”だって、意識しない月日の積み重ねの上に成り立つもののはずなんですけどね。

 

 それでもまあ、何か気持ちを新たにするというのは大切なことだと思います。

 日々の変化に鈍感なのも、特に時間の区切りというのを意識する機会が少ないからというのも大きいでしょうし。

 区切りを設定しないと、物事がどれだけ進んだのか、自分がどれだけ成長したのか、ということも実感し辛いと思います。

 だから変に斜に構えるよりも、素直に心機一転頑張るぞ、と切り出すのが一番賢いのでしょうね。

 

 ということで前置きはこれくらいにして。

 始まりました2018年、今年も私達リプロはゆるりと活動して参りたいと思います。

 まずは5月27日㈰のコミックシティ大阪。

 こちらの方はうちの活動の根幹となる冊子『Repro』の8巻目を持参する予定です。

 今回のテーマは『致死量の鼓動』。

 この言葉から連想する、メンバーそれぞれが考えた物語を掲載する予定です。

 このテーマに少しでも引っ掛かりを覚えた人は、是非ともイベントに足を運んでみて、当サークルのブースへとお越しください。

 きっと、今頃、皆必死になって執筆しており、魂の籠った物語の数々をご提供出来るはずです。

 ね、リプロの皆さん?(特大ブーメラン)

 

 また、その次は明確には決まっていないのですが、やっぱり文フリ大阪には参加したいなぁと。

 リプロは元々、第一回文フリ大阪に、発足当時学生だったメンバーが、卒業記念&社会人になってからも何かをやりたいと始まったサークルです。

 だから、リプロは文フリ大阪と共にあると言っても過言ではありません(異論は認める)。

 結成されてからもう5年程になるのですが、その間にメンバーが変わったり、現メンバーの身辺にも様々な変化があったりと、今でも続いていることが不思議な状態ではあります。

 これも、皆それぞれに何かしら「書きたい」という想いを抱えているからであり、またどうせなら皆で何かしたいという想いがあるからこそだと信じ、感謝の念を禁じ得ません。

 願わくば、これからも出来る限りは続けていきたいですね。

 

 何にせよ、書ける限りは書いていきたいと思いますので、既にご存知の皆様も、今回初めて知ったという皆様も。

 2018年のリプロを、どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 以下、淡夏の雑記。

 

 上記にて何気なく「続けたい」と書きましたが、この“続ける”、“続く”というのはとてつもなく大きな意味を持つ概念なんですよね。

 僕の大好きな型月作品『Fate/Grand Order』でも、こんなに最悪な後味もないのに癖になる野崎まど作『バビロンシリーズ』でも、keyと田中ロミオという化学反応の末に生まれた傑作『Rewrite』でも。

 それら全ての中で、「“良い”ことというのは、“続く”ことなのだ」みたいなことが語られていて、色々と心に沁みます。

 何かが“続く”というのは決して簡単なことではありません。

 家が“続く”には年月が必要ですし、会社が“続く”にはお金が必要ですし、生命が“続く”には大量のエネルギーが必要です。

 物事は様々なものを消費し、犠牲にして“続いて”います。

 犠牲になったものからすれば堪ったものではないでしょうが、少なくとも当の本人達からすれば、自分達が“続く”こと以上の意味なんて他にはないでしょう。

 完全に終わってしまえば、そこにあった意味も価値もなくなりますし。

 

 とまあ、そんなとりとめのないことを考えながら、私、淡夏の新年は始まりを告げるのでした。

割と個人的なことと、坂本真綾の『アイディ』を読んでby淡夏

 年の瀬になると、いつも自分の中でこの問いが浮かびます。

「今年は、一体何を積み上げられたのか」と。

 とっくの昔にモラトリアムは終わり、これまで貰ったものに報いるために、次の世代に何かを残していかなければならない。

 それが大人というもの。

 だと言うのに、自分はまだ次に託せるものなどなく、個人的な人生を完結出来るような積み重ねもない。

 がむしゃらに生きてはみたものの、どうもこの問いを前にすると、胸の内に虚しさがじわじわと広がってしまう気がします。

 

 そんなちょっと気が落ちかけている時、古本屋で一冊の本と出会いました。

 坂本真綾のファーストエッセイ集『アイディ』。

 坂本真綾と言えば、『カードキャプターさくら』の名曲『プラチナ』を歌ったり、自分の大好きな『空の境界』の主人公、両儀式を演じたりと幅広い活躍をされている方です。

 一度だけ、『コードギアス亡国のアキト』の舞台挨拶でご本人を見たことがあるのですが、住む世界が違うというか、ほんとオーラが違うという印象を抱いた覚えがあります。

「こんな凄い人なら、さぞかし凄いこと書いているんだろうなぁ」と読む前までは思っていました。

 

 実際、当の本人は大したことなさそうに書いていますが、その行動力は凄いと思います。

 自分の夢――舞台『レ・ミゼラブル』でエポニーヌ役を演じる――のためにオーディションを受けたり、ちょっと自分を見直すためにロンドンへ一週間のホームステイをしたり。

 そういうことをしたいと思っても、出来ない人の方が多い。

 だから、やっぱり夢を叶える人の絶対に必要な素質は“行動力”なんだろうなと改めて実感しました。

 

 けれど一方で、真綾さんがこんなに自分達に近いんだということを知ったことが、一番この本を読んで心に残ったことでもあります。

 前述した『レ・ミゼラブル』の舞台でも、最初はそれなりにやりたいという気持ちで受けたのに、オーディションが進むにつれ自信がなくなり、いざ受かってしまうと「怖い、やりたくない」という気持ちが強すぎて一度断ってしまったり、稽古が始まってからも、出来なさ過ぎて落ち込んで、人がいる前でも大泣きしてしまったり。

 別にそういうことを言われているわけではないのに、周囲からも責められているような錯覚に陥ったりと、思ってた以上に赤裸々とその当時の心境がつづられていました。

 

 自分は、真綾さんのように、誰かの――自分の夢を叶えるような仕事をしているわけではありません。

 一度そういう方向を目指そうとして、やっぱりがっつり仕事にすることは諦めました。

 好きなことは、好きなまま続けたいし、それをすることだけが自分の幸福になるとは思えなかったのです。

 その選択が正しかったとは思いませんが、間違っていたとも思いません。

 だから結局今の生き方の正しさなんて死ぬ時にしかわからないと思います。

 何をしても、どこに居ても同じように思い悩み、苦しむことは変わらないんだろうなと『アイディ』を読んで思い直しました。

 ただ、そこに対する思い入れや、本気の度合いが変わってくるだけで。

 

 真綾さんはその後も、7年間に渡りエポニーヌを演じられたそうです。

 その中でも苦しいことは続き、けれど楽しみ方も分かってきたとか。

 仕事に関しては成果というどうしようもない現実がついて回りますが、夢ややりたいことについては、やっぱりやり続けないと何にも得られないんだろうなと思います。

「夢は必ず叶う、なんて嘘だ」という話が一時色んなところで語られてきたと思いますが、きっとそれは違うことなんです。

 少し逸れますが、水瀬いのりの新曲『Ready Steady GO!』の中に、こんな歌詞があります。

 

“夢は叶った瞬間に始まるんじゃない。

 そこに辿りつくことを決めた日に、始まっていると私は思うの”

 

 夢は「叶う」ものでも、「叶える」ものでもない。

 「叶え続ける」ことでしか実現出来ないものなんだ。

 だから、行動を諦めたその瞬間に、終わってしまうものなんだ。

 そういうことを、真綾さんの本や、水瀬いのりの曲から感じとった気がします。

 

 冒頭でも述べた問いに、今の自分ならこう返す。

「積み上げたものはないし、それどころか今は停滞すらしている。

 けれど、少しずつでも、間に合わないかもしれないけど、止めることだけはしないつもりだ」

 たぶん、その選択だけが、色々拗らせて力をなくしかけてしまっている自分の過去を救う手立てなんだろうなと、そう思うのです。

 

 前日のブログでもふりうくんが書いていましたが、リプロは2018年も活動を続けます。

 そういう何かをする場があることに感謝しつつ、自分も先へ進んでいきたいと思います。

 自分のことばかりになってしまいましたが、今年もありがとうございました。

 来年もまた、よろしくお願いいたします。

 

 淡夏

2017年の振り返り・2018年に向けて

ご無沙汰しています。ふりうです。

あっという間に年末ですね。

2017年のブログ更新はわずかに5回。

しかも私の更新にいたっては今年が初めてという。。。

ダメダメですね。来年はもっと更新できるようにします!

 

さて、2017年のリプロの活動ですが、

9月に文学フリマ大阪に参加させていただき、

Ripro7号を世に出すことができました。

7号は短編2編と連載作品の完結編が載っていまして、

おかげさまで今までの中で一番ではないか!?という感じで

買っていただくことができました。

買っていただいた方、ありがとうございます。

まだ在庫はありますので、まだお買い求めの方はぜひ!

 

2018年の活動としては、5月23日のコミックシティへの参加を予定しています。

その時には新刊・Ripro8号を販売する予定です。

8号のテーマは「致死量の鼓動」。

鋭意執筆中ですので、ご期待ください。

 

2018年はより活動を活発にしていきたいと考えています!

今年も1年ありがとうございました。

来年もよろしくお願いします。

 

ふりう

 

 

 

 

 

 

久々の更新&『Fate/stay night〔Heaven's Feel〕1.presage flower』感想

 お久しぶりです、淡夏です。

 いつもこの件から始まるのは気のせいでしょうか(反語)。

 

 少し肌寒くなり、いよいよ冬が迫ってきましたね。

 毎年この時期になると、「お前はこの一年で何をしてきた」という自問自答が始まります。

 個人的に今年は色々と環境が変わり新たなスタートを切った年ではあるのですが、スタートから少しだけ進んだところで足踏みしている気がして、どうもまだまだ積み残しがあるように感じます。

 そうは言ってももう十一月。

 泣き言をほざく暇があるならば、少しでも前へ進まないと何も終えられないなと、気持ちを入れるだけでも入れておかなければなりませんね。

 

 そんなこと言って実際どうなのさ、リプロの活動とかきちんとやってんの?

 というハナシになると思いますが、活動はしています!

 9月には毎年恒例“文学フリマ大阪”があり、来年5月に大阪で開催予定の“コミックシティ”にも参加予定です。

 具体的な日程はまた追って告知しますので、是非ごひいきに。

 ちなみに、次回新刊のテーマは“致死量の鼓動”。

 メンバーで出し合った単語を組み合わせたテーマで、この言葉からどんな物語を生み出すか各自思案中です。

 少しでも気になった人はツイッター等もしていますので、そちらもご覧ください。

 更新が滞っていますが、そちらもきちんとしますよ、ええ(自分に言い聞かせるように)。

 

 

 さてさて、気付けば十一月という話をしましたが、いつの間にか二週間が過ぎていました。

 何の話かと言うと、そう、『劇場版Fate/stay night[Heaven’s Feel] 1.presage flower』が公開されてからの時間です。

 2014年の“Fate Project”発表会でのサプライズ告知から三年。

 待ちに待った三つ目の物語、桜ルートの映像化ですよ。

 まだ二回しか観に行けてませんが、少しだけその感想をば。

 

 

初見には厳しいが、往年のファンからすれば丁寧な再構成

 

 FGOから初めてFateに触れて気になっている、という人たちも多いかと思いますが、はっきり言います。

 予備知識なしで鑑賞するのは些か厳しいかなと。

 と言うのも、原作からしてセイバールート、凛ルートを通じて語られた設定やテーマをひっくり返すような物語構成となっているので、その二つを押さえておく必要があるのです。

 映画だから親切になっているかと言えば、逆に尺の都合上カットされている部分も多くありましたし(原作者からも「何度目だナウシカ」とコメントされるセイバー召喚からの一連のシーンは、OP映像として処理されていましたね)。

 なので、気になる人は、せめて少し前にやっていたTVアニメ『Fate/stay night[Unlimited Blade Works]』くらいは予習しておいた方が良いのかなと。

 特にこの桜ルートは、セイバールートで提示され、凛ルートで一つの答えが描かれた主人公の衛宮士郎の理想に対し、また別の解が導き出される物語でもあります。

 なので、衛宮士郎という男が何を背負っているのかを知っているか知らないかで話が変わってくるので注意が必要です。

 もちろん、「サーヴァントの戦いが熱い!」、「桜が可愛い!!」という楽しみ方はあるのですが、どうせなら士郎、そして桜がどんな人物なのかを理解した上で見て欲しいというのが一ファンとしての希望です。

 その見方をすれば、この作品がどれだけ丁寧に作りこまれているかが見えてきますので、是非。

 

 

 

【重大な原作ネタバレ注意】心に刺さる“日常”の描き方や、桜の表情や仕草に込められたもの

 

 さて、ここからは原作のネタバレも含んだ感想を。

 繰り返しますが、カットされているところはかなりカットされているけれど、丁寧に描写されるところは本当に息を忘れるくらい丁寧なのがこの作品。

 どういうところが丁寧なのかと言うとまず冒頭から。

 何と、原作では少し話に出てくるくらいだった、桜が衛宮邸に来るようになったその過程が描かれているではありませんか。

 衛宮低と言えば、士郎や桜が作った料理を藤ねぇが余計なことをしてちょっとした騒ぎが起こる、賑やかな食卓というイメージが強くあります。

 しかも物語が進行するにつれ食卓を囲む人数が増え、コメディシーンと共に聖杯戦争を離れた彼ら、彼女らの素や意外な一面が垣間見える空間でもあります。

 そんなファンとしては実家のような安心感すら抱く場所が、冒頭では士郎以外誰もいない、伽藍とした雰囲気で描かれています。

 もちろん藤ねぇはたまにやってくるようなのですが、後で顔を見せるというメモを残す程度。

 ファンが知っているような賑やかな衛宮邸は、どこにも見えません。

 ところが、そこにケガをした士郎を気遣って桜がやってきます。

 最初の内は友人の妹に世話を妬かせるわけにはいかないと断る士郎ですが、桜の頑なさに折れ、家事を手伝ってもらうようになります。

 そう、ここ。

 ここがあの賑やかな衛宮邸の始まりなのです。

 原作ゲーム本編が始まった時には出来上がっていたあの穏やかな日常は、けれど決して、当たり前のものではなかったのだと実感させられました。

 間桐桜という少女は、他ルートでも藤ねぇと並び“日常”の象徴そのもの。

 その“日常”の有難さを知ることは、桜ルートをより魅力的に、尊いものにしてくれます。

 監督はそのことを誰よりも理解してくれているようで、本当に驚かされました。

 

 監督の拘りはそういった話の構成ばかりではなく、桜の表情や仕草にもしっかりと表れています。

 遠坂の家から間桐の家に連れていかれ、蟲による魔術的な肉体改造を施され人としての感情を失ってしまった桜。

 衛宮邸に来たばかりの頃は笑顔を見せず、暗い目をしていました。

 けれど士郎や藤ねぇと過ごす時間が増え、士郎の前では遂に笑顔を見せるようになっていきます。

 

「私、先輩のお家以外では、ご飯、美味しく食べられなくなっちゃったんですよ」

 

 PVでも使われているこの台詞ですが、実情を知っている人からすれば凄く辛い。

 食べられなくなったというよりも、やっとご飯を美味しく食べられる場所が出来たと、そういう意味ですからね……。

 ほんと、桜の表情の変化が、この台詞を物語ってくれていましたよ。

 

 他にも、桜がリボンを触るその仕草。

 それを彼女がしたのは、一度目は藤ねぇが「桜ちゃんにはヒーローっている?」と何気なく聞いた時。

 二度目は、士郎との会話でとある女生徒の話になった時。

 そう、どちらも姉である遠坂凛を意識してのことなんですよね。

 桜にとって凛は眩しい存在であり、自分には与えられなかったものを持っていった憎しみをも抱きうる存在。

 輝かしい人生だけならまだしも、士郎の心すらも凛に持っていかれるのではと思った時の桜の黒い気持ちとか、その一端がリボンに触れるあの仕草に込められていたのは流石。

 ただ、羨望や嫉妬はあれど、桜にとって凛はやっぱりヒーローなんですよね。

 だからこそ、HFラストで黒化した桜を正気に戻したのは、士郎ではなく凛だったのだと。

 この日常の何気ないシーンが、そこに繫がっていくのかと。

 

 こんな感じで色々分かってからだろ、桜の表情や仕草全てに意味があるという恐ろしいまでの拘りが見えるんですよ。

 だからこそ余計に、原作を知った上で観て頂きたい。

 そうすれば桜への思い入れが深まり、引いてはその桜が居る日常を過ごした士郎が二章で選ぶだろう“桜だけの正義の味方になる”という選択の重みが増していくと思います(ついでに言うと、これを観たせいで、原作にある、桜を切り捨てて正義の味方を貫く“鉄の心”エンドの重みがとてつもないことになりましたね。桜の居る日常って士郎にとっても、正義の味方を実行するためのロボットではなく、人としての喜びを感じることの出来る大切な場所だったと思うんですよ。喜びを感じる度に彼を責める心の声が聞こえるけれど、それでも士郎が今の士郎で居るためには必要な場所だったんだなと。それを切り捨てるということは、完全に人として生きる道を捨てることで……。はぁ、士郎はほんと、考える度にしんどくなってきてかないませんよ)。

 

 まだまだ語りたいところはありますが、まだまだ長くなりそうなので今回はこの辺で。

 後半はもはやどの層に対して書いたものか分からなくなりましたが、原作好きなら共有出来る気持ちはあると思いますので、是非!!

 Fateを知らずにここまで読んでしまった人は、とりあえず原作かアニメのUBWを。

 そこで感じ入るものがあったのなら、まず間違いはないと思いますよ。

始まりました、平成29年度

 どうも、かなりお久しぶりな気がする淡夏です!

 気づけば新年ばかりか新年度が始まっていて、焦りを隠せずにはいられません。

 いや、焦る前に気づけよという話なんですけど、学習能力ェ……。

 

 新年度ということで今年から新しい生活が始まったという方も多いと思いますが、自分もここ数か月は環境がすっかり変わってしまってあたふたしておりました。

 良い方向には変わっていっているはずではあるのですが、それでも適応するのにはそれなりの時間がいるんですね。

 ただ、やはり人間は何かしらの刺激があった方が人生も豊かになるようで、環境の変化に伴い心の方もちょっと活発さが出てきてるように感じます。

 基本的に自分は、就活や結婚という幸せの既定路線に対して、そういう価値観を押し付けられたくない(周りの圧力ではなく、自然と良いものだと感じたい)という厨二的反抗期が終わらないタイプの人間なので反発してしまうのですが、人生のステージを上げていくことは、確かに心の健康を維持するためにも必要なんだろなと思ったり。

 身も蓋もない言い方をすれば、人って飽きちゃうんですよね、環境にも、人間関係にも。

 飽きがきて心が腐らないように、そういった変化を求めるんだろうなぁ。

 

 とは言え、まだ大人の割り切りには納得がいかないので、しばらくは自分の人生を生きようかなと思う、そんな毎日です。

 ……いや、何の話だろう、これ。

 

 

 きちんとReproの活動の話もしましょうか!

 今現在の活動としましては、先の話のにはなりますが、九月に開催予定の“大阪文フリ”に参加予定です。

 さこで出す(予定の)次号テーマは、“切ない話”です!!

 シンプルです!

 シンプル・イズ・ベストです!!

 そんな感じで、現在各メンバーが思いのままに“切ない話”を執筆中(のはず)です。

 下記のリンクにて過去作が読めるので、気に入ってくれた方はお楽しみに!

  ↓

 

NOVELS – Repro

 

「漁港の肉子ちゃん」感想~チョウチンアンコウの生き方~

「漁港の肉子ちゃん」を知ったのはアメトークの読書芸人で又吉が絶賛していたからで、多分そうじゃなかったらこの本を手に取ることはなかったと思う。

 

漁港の肉子ちゃん (幻冬舎文庫)

漁港の肉子ちゃん (幻冬舎文庫)

 

 だって、タイトルが「漁港の肉子ちゃん」だ。すたいりっしゅ、とか、はいせんす、とかそういったものから一番遠いんじゃないだろうか。

でも、読み終わって思うのはそういうところも含めてぴったりのタイトルだってこと。それとこの本を読めて良かったということだ。

 

あらすじはある意味すごく分かり易い。

関西出身で、朗らかかつ豊満すぎる肉体を持つ肉子ちゃん(本名 喜久子)はついつい駄目男を好きになり、貢いでしまう。それに簡単に人に騙される。すごく人情味にあふれるけれど、服のセンスは凄くダサいし、決して美人とはいえない。関西のおばちゃん、とはまた違うのだけれど、どこか実家のおかんちっくなものを継ぎ足し継ぎ足し煮詰めたものみたいな存在だ。

そんな肉子ちゃんとその娘であるきくりんは肉子ちゃんを捨て、消えた男を追っかけて漁港に来た。しかし、その男は実はその漁港ではなく、別の所にいた。しかも、そこでよろしくやっているらしい。

行き場を無くした二人はその漁港に根を下し、漁港にあるお肉屋さんで働き始めた。漁港の肉子ちゃんの誕生である。

 

そんな強烈なキャラクターの母親を持った思春期真っ盛りのきくりんがこの話の主人公だ。

きくりんは肉子ちゃんとは似ても似つかず、美人でおとなしい。他人を傷つけるぐらいなら自分が傷つく方がずっと楽、とか思っちゃうタイプだ。

そんな彼女が「あー、こんなやついるいる」って人たちと関わりながら、自分の自意識と戦いながら生きていくさまが書かれている。

 

この話の登場人物はみんな生きている。キャラクターの要素として強烈なんじゃなく、まるで本当の知り合いみたいに目の前にその人たちが浮かぶ。

これは作者の西加奈子さんの力だと思う。気取っていなくて、ちゃんと地に足がついていて、けれど、しっかりと心に残る人たち。

テラスハウス、とかみたいなおしゃれさはないのだけれど、こたつみたいにずっと入っていたくなる暖かさを持っている。

 

そんな人たちが実際に苦しみながら生きている姿は凄く勇気づけられる。みんな、みっともなくて、かっこ悪くて、けれどもがきながら生きている。

そんな姿を漁港の自然が包み込む。東京に憧れて、かっこつけようとしてもやっぱりみんな田舎者で、ダサいのだ。けれど、それでもなんだかんだ生きている。

 

色々と心に残った部分はあったのだけれど、僕はチョウチンアンコウのエピソードがすごく心に残った。

チョウチンアンコウはメスだけが大きい。ちょうちんを持っているのもメスだけだ。オスはすっごく小さくて、まったく別種の魚みたい。

オスはメスの出すフェロモンを頼りにメスを探す。そして、見つけた時にメスのお腹にかぶりつくのだ。そのかぶりついた口はどんどん退化し、いつの間にかメスの身体とくっついてしまう。それどころかオスは生殖器以外の機能が退化して、やがて完全にメスの身体の一部となり、ただの臓器と成り下がる。

このエピソードをきくりんは何かの本で読む。こういう風にメスの身体の一部となってしまうオスを、そしてオスを取り込んでしまうメスを想ってきくりんは泣くのだ。

 

このメスは肉子ちゃんかもしれない、と僕は思った。様々な不幸な過去を身にまとい泳ぎ続ける肉子ちゃんは確かに端から見たら可哀想かもしれない。

けれど、きっと肉子ちゃんならそんな風になっても笑いながら「また太ったわ! 大に点で太るやねんから!」と言ってくれる気がするのだ。