小説におけるメールの終わり、LINEの始まり。
お久しぶりです。ふりゅうです。
ブログ更新を淡夏氏・鳴向氏・綾町氏に任せてサボってました・・・。
藤沢数希さんの『ぼくは愛を証明しようと思う。』という小説を読みました。
ざっくりあらすじを言いますと、主人公のわたなべ君(仕事はできるけど女性に全然モテない)が永沢さん(仕事の知り合い。えらくモテる)から恋愛工学(進化生物学や心理学の膨大な研究結果を基に、金融工学のフレームワークを使って、ナンパ理論を科学の域にまで高めたもの・・・文中より引用)を学び、女性との付き合い方を学んでいく・・・そんな内容です。
安易な非モテサクセスストーリーと思うなかれ。思った以上に深くて読み応えのある小説でした。
また、『心が叫びたがっているんだ。』という映画も見てきました。
こちらの内容については淡夏氏が書いてくれているので割愛ということで。
『心が叫びたがってるんだ。』(以下、ここさけ)と『ぼくは愛を証明しようと思う。』(以下、ぼく愛)の共通点として、コミュニケーションのツールとしてLINEが大きく機能していることが挙げられます。
『ここさけ』の成瀬順は幼年時のショックで言葉を話せなくなります。
そのため周りとのコミュニケーションはほとんどがスマホを使った文字のやりとり。
LINEというワードは出てきませんでしたが、はっきりとLINEのトーク画面と思われる文字のやり取りが劇中に何度も登場しました。
『ぼく愛』のわたなべ君は永沢さんに連れられて夜の街へナンパに繰り出すのですが、そこで女の子から電話番号やメールアドレスなんか聞きません。連絡先として交換するのはLINEのIDなのです。小説内ではチャットのようにLINEでの会話が大量に登場します。
世代によって差はあるでしょうけど、若い人ほど携帯(スマホ)でメールする頻度は少ないんじゃないでしょうか。僕はほとんどメールする機会が無くなりました。LINEの方が会話のペースが速いし、スタンプも充実してるし、日常的なコミュニケーションはほとんどがLINEです。
これって、物書きさんにとって結構真剣に考えないといけない問題だと思うんですよ。
ひと昔前、携帯電話の登場、メールの登場によって、コミュニケーションの手段は大きく変化し、それに伴って小説でもそのようなアイテム・ツールを機能させる必要が出てきました。
例えば、現代(狭義的に2010年以降とします)日本が舞台の小説で、高校生や大学生くらいの年齢の恋人の二人が家の電話で家族の目を気にしながらデートの約束をしたりして、当日に駅の大きな柱の表裏で待っていてなかなか会えなくて・・・なんて展開は、もはや有り得ないわけです。
え、スマホは?なんですぐ連絡しないの?ってなってしまう。
それと同じような状況がメールとLINEにおいて起こり始めているように思うのです。
だって、今の中高生は好きな子へ送ったLINEトークの既読がついたつかないで悩むことがあっても、好きな子へ送るメールの件名で悩むことなんて、もう(ほぼ)無いんですから。
ここ2~3年でLINEがコミュニケーションツールとして席巻するようになりました。
僕(20代半ば)の中高生のころはメールがメインでしたから、つい簡単にメールアドレスを聞き出したり、メールを送ったりする表現を入れてしまうんですけど、これからはその辺に対して意識的になる必要が出てきているのかもしれません。
電話にもない、メールにもない、LINE特有のコミュニケーションのスピードとインスタント感を上手く小説に取り入れることが出来れば、そこはまだブルー・オーシャンなのかもね。