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りぷろぐ

せつな系創作団体「Repro」のBlogです!

相互不理解な私達 ~『空の境界』から見る他者と自己の境界線~

 初めまして、Reproの淡夏という者です。

 型月信者などやっております、以後お見知り置きを。

 さてさて、はてぶへの移転に伴い、もうちょっとしっかりとした論評などしてみてはどうだろうかという話になりました。

 故あって一番バッターを務めることになりましたので、完成した駄文をば掲載したいと思います。

 タイトルの通り、今回は『空の境界』を読んで思ったことを徒然なるままに書いております。

 興味のある方は、どうか読んでみてください。

 それでは、本文へ――

 

 

 ――人は、分かり合えることができるのだろうか。

 

 この問いに対し、多くの作品では「分かり合うことができる」と答えている。強く持てば、想いは必ず届く、と。

 だが奈須きのこの小説『空の境界』で為された回答は、「分かり合うことはできない」という、孤独なものだった。

 

 『空の境界』は、1998年に奈須きのこ武内崇の同人サークル「竹箒」のHP上で『空の境界式』として発表された。その後、2001年に同人小説として上下巻で刊行され、講談社太田克史の目に止まり、2004年に講談社ノベルスから商業作品として刊行されることとなった。それからは2007年よりufotableより全七章でアニメ映画化され、その人気を確固たるものとした。2010年からは星海社のHP「最前線」にて天空すふぃあによるコミカライズも掲載されている。

 物語はモノの死を視る“直死の魔眼”と、世界のあらゆる原因が渦巻く“根源の渦”と繋がった身体を持つ“両儀式”と、平凡であろうとしながらも式に好意を寄せる“黒桐幹也”の二人を中心に、“日常”と“非日常”の境界を巡って進む。式は元々“織”という男性人格を身に宿しており、幼い頃から他人というものが自分と違うということを理解してしまっており、なおかつ自分が異常だということも知ってしまっている。その為、自分を“非日常”の側において“日常”というものを避けていた。だが、幹也は式に近付きその境界をぐらつかせる。

 ぐらつかせはするが、その境界が消えさることはない。確かに、物語の終わりに式は幹也と手を繋ぎ、“日常”の側へと引かれていくが、それは境界を越えたことを意味しない。元より、その境界は式自身が引いた、“自己”という檻だ。その檻がある限り式は式という自我を保つことができるし、外側からの攻撃にも耐えられる。

 この檻は、何も式のような特別な境遇にある者だけが作るものではない。我々現実に生きる人間も、どこかで他人と自分との間に線引きをし、外界――他者からの攻撃を受けないようにしている。そうして内側で育てた自我で以て、生きる意味などという夢のようなモノを追い求め、人生と為す。それは檻の中でこそ有効なモノであり、外に出ればたちまち意味を失ってしまう、儚いものだ。だから、もし本当の意味での他者との相互理解が成立するのならば、それは自我の終わりを意味することになるだろう。

 にも関わらず、人は、人を求めてしまう。それは単純に“寂しい”からだ。『空の境界』の作中、式は事故により織という人格を失ってしまう。彼の存在により孤独ではあっても孤立していなかった彼女は、本当の意味での孤独を味わうことになる。他者との相互理解は自我の崩壊に繋がるが、自己を認識するためには他者という存在が必要だ。そうでなければ、どちらが境界の内と外なのか分からなくなってしまうから。思うに、その自己の喪失に対する“恐怖”こそが“寂しい”という感情なのではないだろうか。

 “寂しさ”は次第にエスカレートし、やがて相手を欲する気持ちへと変化する。自分で引いたはずの境界線を越えようとしてしまう。だが前述した通り、境界を越えてしまうことで自我はなくなってしまう。そのジレンマにより生じる“切なさ”こそが、『空の境界』で描かれているものだと、私は思う。

 それを象徴するような文章がある。

 

 “人間は、ひとりひとりがまったく違った意味の生き物。

  ただ種が同じだというコトを頼りに寄りそって、解り合えない隔たりを空っぽの境界にするために生きている。

  そんな日がこない事を知っていながら、それを夢見て生きていく。”

 

 結局、個でいる限り人間が分かり合うことない。分かり合いたいという気持ちも、自己を拡大したいという欲望に過ぎないだろう。

 それでも、誰かと分かり合う夢を見ることくらいは自由だ。それは、“寂しさ”を感じる私達にとっては、確かな救いとなる。

 

 FacebookやLINEなどすらなかった1998年から既に、奈須きのこは人が関係する儚さを訴えていた。ある意味において人との繋がりがより強固になり、同時に個という概念も強くなるこの時代に生きる私達は、もっとそれを繊細な問題として考えるべきなのかもしれない。そうすれば、経済成長などという神話に頼らずとも、幸福へと繋がる糸口が見つかるだろう。

 『空の境界』という作品を読み返しながら、そんな祈りを胸に抱いた。