青春、そして心の叫び~『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』を読んで~
まさかの二週間連続でこんにちは(こんばんは?)淡夏です。
すっかり夏(という名の締切)に近付いているのに、書いたもののリテイクをすべきかどうかという瀬戸際に立たされたりしています(泣)。
まずいな、こりゃ……。
さてさて、今回は、そんな切羽詰まって然るべき私淡夏がどはまりしているラノベの所感をば。
いつもの通り、ちょいちょいネタバレを挟んでのものなので、困る人は回れ右。
気になる人は続けてどうぞ。
それでは、以下感想。
“青春とは嘘であり、悪である。
青春を謳歌せし者たちは常に自己と周囲を欺く。
自らを取り巻く環境のすべてを肯定的に捉える。
何か致命的な失敗をしても、それすら青春の証とし、思い出の1ページに刻むのだ”
(『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』1巻12頁、比企谷八幡のレポートより)
このような出だしから始まるのが、“SUGOI JAPAN AWARD2015”ラノベ部門で堂々の一位を獲得した、渡航作『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』(以下『俺ガイル』)だ。
ラノベ界の至宝と呼ばれる程の人気や、如何にもラノベらしい長文系のタイトルから分かるように、俺が今まで避けてきたのは仕方のないことだったと思う。
いや、だって皆が異様に持ち上げるのも好きじゃないし、長文系タイトルのハーレムものっぽいのはちょっと……という感じで存在は知っていたもののずっとスルーしてきた。
しかし何故それが今になってここまでの手の平クルーテオ卿な反応を見せるのか(どうでも良いけど、『アルドノア・ゼロ』のクルーテオJr.の登場はもっと伏線あった方が良かったよね)。
きっかけは俺が勉強している横で弟にアニメ版一期を全部見せられたことにある。
正直に言おう――面白かったのである。
まず物語は以下の通りだ。
主人公の比企谷八幡は生まれてこの方友達すらできたことのない、ベテランぼっちである。
そのためか捻くれた考え方を持つようになり、常に他人と距離を置いて高校生活を送っていた。
そんな彼は“高校生活を振り返って”という課題に対し、上記のようなレポートを提出する(ちなみにレポートの結論は、嘘や欺瞞で塗り固めた青春は悪であり、逆説的に言えばぼっちは正義であり、つまりリア充爆発しろ! という残念なものである)。
それを見かねた結婚できない国語教師平塚先生が彼をある部へと強制入部させる。
その名は“奉仕部”。
部長は容姿端麗、成績優秀な完璧だけどその名の通り冷たく刺のある言動で他を寄せ付けない美少女、雪ノ下雪乃。
活動内容は「困っている人に救いの手を差し伸べる」こと(まあ要するに何でもお悩み解決部である)。
ちなみに部員は(物語当初)雪ノ下以外はおらず、当の雪ノ下も本を読むこと以外にこれといった活動はしていない。
基本的には読書と、雪ノ下による八幡への言葉の攻撃ばかりが続く時間の中、八幡のクラスメイトである由比ヶ浜結衣(クラスの中では上位カーストの中にいるが、常に場の空気を気にかけており、それに合わせるような行動をとっている。なお、八幡は名前どころか顔すら覚えていなかったのだが、彼女の方をしっかりと彼を認識していた。それには分けがあるのだが……)が相談にやってくる。
二人はその依頼に応え、解決する。
その中で遠慮のない二人のやり取りに憧れを抱いた由比ヶ浜が奉仕部の一員となり、そこから彼らの時間は少しずつ変わったのものとなっていくのだが……。
これだけ聞くと、『僕は友達が少ない』(通称『はがない』)と似たハーレムもののラブコメ作品なのかと思うだろう。
だが、『俺ガイル』の特徴は何よりも主人公のぼっち度にある。
ぼっちのあまりぼっちを拗らせ、あまつさえぼっちを(半分ネタ的な意味で)哲学の域にまで昇華させる程のぼっち、それが比企谷八幡なのだ。
どのくらいのものかと言えば、
“お金持ちはプライベートジェットやプライベートビーチなどを持ちたがる。常にプライベートタイムであるぼっちは人生の勝者、つまりぼっちはステイタスというべきだ”
(2巻12頁より)
“ぼっちは平和主義者なのだ。無抵抗以前に無接触。世界史的に考えて超ガンジー”
(3巻30頁)
等と残念な脳内独り語りを繰り返す程。
これに様々なアニメ・漫画・ゲームネタを混ぜてくるものだから、オタクリテラシーの高い人は笑いが止まらなくなること間違いなし。
と、まあネタ的な意味でも凄く面白いのだが、ただネタを羅列しただけのギャグノベルならここまでの人気は出なかっただろう。
つまり、本題はここからだ。
そもそも、何故八幡はぼっちになったのか。
それは“本物”の関係を切に求めていたからだ。
冒頭のレポートにあった“青春とは嘘であり、悪である”という考え。
ネタのように書かれているが、これは恐らく八幡が心の底から思っていることである。
現代社会において、人間関係を築くためには常に場の空気を読みそれに合わせ自分を偽ったり、他人に譲歩したりすることが求められている。
リア充達はとかく“自分達は素晴らしい人生を送っている”とFacebook等に如何にも幸福そうな写真をアップし、周囲に自分は楽しんでいることを承認してもらうことでようやく、自分達が幸福であり、共に楽しんでいる仲間が掛け替えのないものなのだと納得することができる。
だが、それは果たして尊いものなのだろうか。
友達、恋人、家族。
それらの言葉で縛りつけてようやく成立する関係を、“本物”と呼ぶことができるのだろうか。
奉仕部を通じ、八幡は雪ノ下や由比ヶ浜との関係を少しずつ築いていく。
他人に対しても容赦なくものを言う雪ノ下は、八幡にとって裏表のない付き合いのできる人物。
場の空気を読みながらも天真爛漫に振舞う由比ヶ浜は、八幡にとって気を抜いた付き合いのできる人物。
そんな三人で様々な人達の依頼を解決していく中で確かに、ぬるま湯につかるような心地好い時間が作られていく。
だが、八幡の中にある彼女達の人物像もまた、彼が彼女達に押しつけたもの。
それは、彼が嫌う欺瞞や嘘とどう違うのだろうか。
そのような気持ちを抱えながら自問自答し、適切な距離感を導くための計算式を作り、自身の行動を当てはめていく。
けれど、正しいと思った答えは正解などではなく、八幡は幾度となく数式を作り直す。
そうして答えが分からなくなった彼は、適切な距離感を掴めなくなった二人に願うのだ、「俺は、本物が欲しい」(9巻255頁)と。
作中には他にも、重要人物としてリア充代表の完璧好青年、葉山隼人という人物がいる。
彼は由比ヶ浜の属する上位カーストの中心人物であり、常に空気を明るい方向にもっていき、誰に対しても分け隔てなく振舞う、理想のリア充キャラなのだ(ちなみに彼は雪ノ下と幼馴染で過去に何かあったそうなのだが、現段階では具体的に何があったのか不明である。彼の異常なまでの“皆仲良く”という考えは、その出来事を発端としているようなのだが、果たして……)。
しかし八幡とは対極にいる彼もまた、彼の人望故に築いてきた関係について思い悩むことが多い。
考え方の違いはあれど、根本は八幡と似たところがあるように感じる。
つまり、“本物が欲しい”と。
『俺ガイル』はそんな人間関係の機微に苦しむ若者達を描いた、紛れもない“青春”ものだ。
この“本物が欲しい”という気持ちは、リアルに生きる我々とも決して無関係なものではないはずだ。
学生の頃は友情、恋愛、社会に出てからは仲間、家族という名前のついた関係を人は持ちたがる。
それは一重に、自分の居場所が欲しいから。
地に足ついていない状態というのは不安だし、ついていたとしても、その足場自体が不安定なものであってはならない。
だから人は、皆が承認し合うことで強固なものとなる、名前のついた足場を求めるのだ。
しかし、それは自分を何がしかの役割に当てはめることにも繋がる。
そして時には自分を押し殺し、場の空気の奴隷と化すことすらある。
そこまでして得た安寧に、果たして意味はあるのだろうか。
声を大にして疑問を叫んでも、それは“皆”の声によって掻き消される。
何て恥ずかしいやつ、皆が称賛するものを素直に受け入れられない可哀想なやつ、と。
それが、リアルだ。
だからこそその声を、八幡の心の叫びに重ねたのだろう。
ラノベは文学や文芸とは違い、表現が稚拙だ。
単純な刺激を取り入れた、程度の低い娯楽なのかもしれない。
けど、高尚なものではないからこそ、純粋な想いを自由に描くことだってできる。
八幡の“本物が欲しい”という想い。
そんな稚拙で、けれど切実な願いは、ラノベだからこそ、これほど多くの読者に届いたのかもしれない。
上手くは言えないが、そういう稚拙さを極めた先に、新たな文学の可能性すら広がっているように思えてならないのだ。
今後、彼らの関係がどのようなものとなるのかは分からない。
ひょっとすると多くのハーレムもののように、所謂メインヒロインと結ばれるような終わり方をするかもしれないし、何だかんだで楽しい日々が続くような終わり方をするかもしれない。
けれど、この作品にはそんな安易な結末を迎えて欲しくはない。
叶わないとは分かっていても、彼ら、彼女らにとっての“本物”を見つけて欲しいと、(積み本の山を見つめながら)まだまだ程遠い結末に想いを馳せるのであった。
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