りぷろぐ

せつな系創作団体「Repro」のBlogです!

ジャンプSQ.CROWN読みました。

こんばんは。鳴向です。

こないだ新しく出たジャンプSQ.CROWNを読んだので、その話とか。

 

 これですね。

購入動機はお察しって感じなんですが、これ、掲載作品のほとんどが若手とか新人の作家さんの読み切りなんですね。季刊らしいですけど、面白いというか、思い切った雑誌創るもんだな~って、ちょっとびっくりしました。

漫画雑誌丸ごと一冊読むって実はかなり久しぶりだったので、せっかく読んだのだしということで個人的に面白かった作品をメモしておこうと思います。

 

いちばん面白くて続きを読みたい!と思ったのが、

「奇譚叙事詩 マザーグース」安東汐 と 「DARK UNknown」白川み

でした。二つあるのは同率一位ってことで。

マザーグースの方は、とにかくヒロインがかわいい!ゴシックかわいい!主人公もかわいいけど男気もあっていいです。行動に嫌みがなくて好感。

ゴシップ好きの友人に連れられ、なぜか自殺が多発するようになってしまったロンドン橋にやってきた主人公は、そこで「血塗れの淑女」の亡霊と出会い、「ロンドン橋」のマザーグースへと巻き込まれていくが…!?的なお話。

マザーグースとそこに隠された真実っていうテーマも胸アツです。ぜひ他のマザーグースの話も読みたい……!ってなりました。

こっちは個人的な好みどストライクな話でしたね~。

シャドーオークという、影からできた化け物が跋扈する街で、それを倒して喰われた身体の一部を取り返そうとする青年と、その街の女警官が出会う話。

序盤はちょっと説明多いな~って感じもしたんですが、二人の関係性の変化にめっっっちゃときめきました……こういうの好き!!ネタバレちゃうから言えないけど、ほんと、こういうの好き!!

あと主人公のビジュアルが好きです。やる気なさげな表情と、顔半分を目玉模様の布(?)で隠してるの、かっこいい。

 

話の展開的に「続きを!」って感じではなかったけど面白かったのが「絶望のトリガー」。

この絵柄でそんな話だとは全く思わんかったやん……。

続きというか同じ世界観の別視点での話が見てみたいですね。

 

あと、話は個人的には響かなかったけど絵が印象的だったのが「アオゾラチアー」。

タイトルのページとか分かりやすいですが、毛筆調の字とか、あとパース?とか、勢いがあって個性的で、こういうのもいいなぁって思いました。

 

なんか、電書版で読んだのでアンケートとかついてなくて、面白かった!というのをどこに向ければいいんだ?と思ってとりあえずブログ書いたんですけど、どうすればいいんですかね…

読者の声は大事って言いますし、面白かったものに対して「面白かった」と言うということを惜しまずにいきたいなぁと思います。

なんか、雑誌自体は書店では売り切れ続出で増版がかかった(!)らしいので、私のオススメでもし引っ掛かってくださった方がいれば、ぜひぜひ見かけた際にはお手に取ってみてくださいませ。

それでは。

【メモ】呪われたもの アレクシナ・Bの回想

お久しぶりです。鳴向です。

先日読んでいた『モンスターの歴史』(ステファヌス・オードギー著、2010、創元社)の中にすごく心惹かれる文章を見つけたので、それの紹介というか自分用メモというかをしておこうと思って更新します〜。

文章は、ミシェル・フーコーの『エルキュリーヌ・バルバン、通称アレクシナ・B』(1978)の一節だそうで、論文でやるとめっちゃ怒られる孫引きというやつなんですが、メモということで…。

アレクシナ・Bは両性具有者で、まだ世間が異端を人ではなくモンスターとして見ていた時代、世間に好きなように好奇、畏怖、嫌悪、その他さまざまな目を向けられ、研究の対象とされ、最後には自殺したという人物です。

引用はその彼、もしくは彼女の遺書の一部なのですが、発表されている遺書自体も他人の手が加えられている可能性があるらしく、本当に最後まで人に存在を歪められて生きねばならなかった人なのですね。

その引用の内のさらに一部を以下に引きます。

***

さあ、呪われたものよ、務めをはたせ。

お前が加護を求める世界は、おまえのためにつくられたのではない。

おまえは、世界のためにつくられたのではない。

あらゆる苦しみが存在するこの広大な宇宙で、お前が自分の苦しみをしまっておく場所を探しても無駄だ。

おまえの苦しみは調和を乱す。

おまえの苦しみは、自然と人間性のすべての法則をくつがえす。

家庭は、おまえを受け入れない。

お前の人生そのものが、若い処女や内気な青年を赤面させるスキャンダルなのだ。

 

(中略)

あの黄金の杯から、私は良い香りだけを吸い込んだ。

あなたたちは、杯のなかのありとあらゆる恥辱や不名誉をなめつくし、それでもまだ満足していない。

だから、同情はあなたたち自身のためにとっておけ。

 

おそらく、同情に値するのは、私よりもあなたたちのほうである。

私はあなたたちの無数の不幸を上から見下ろし、天使の性質を備えている。

なぜなら、あなたたちがいったように、私がいる場所はあなたたちのいる狭い領域ではないからだ。

あなたたちには、地上がある。

私には、無限の空間がある。

肉欲や物欲など、たくさんのしがらみでこの世にがんじがらめになっているあなたたちの精神は、無限の透明な大海のなかにもぐることはない。

その大海は、あなたたちの干からびた浜辺でつかのま道に迷った私の魂が水を飲む場所なのだ。

***

「スキャンダル〜」という部分には若干の時代性を感じますが、それ以上に絶望と孤独、その先の達観に気持ちが揺さぶられる文章だと思います。

「呪われたものよ、務めをはたせ」。

お前が加護を求める世界は、おまえのためにつくられたのではない」。

泣きたくなるような言葉ですが、そこには決然とした力強さも含まれている気がします。

同情はあなたたち自身のためにとっておけ」。

安易な理解を拒む、底の見えない孤独。

遺書に記されたこの孤独を「分かる」なんて簡単に言うことはできませんが、それでもどこか共感というか、惹かれてしまう、もしくはこの孤独の表出に癒されすらする、そういう部分があります。

もしかしたらそれが、言葉にすることの力、強さなのかも、と思います。

人の遺書に記された言葉ほど強度のある言葉なんて、きっとよほどのことがないと書けないでしょうが、それでも、それくらい強く人の心に働きかける、あわよくばその救いとなるような言葉を書けるようになりたいものです。

 

モンスターの歴史(「知の再発見」双書)

モンスターの歴史(「知の再発見」双書)

 

 

青春、そして心の叫び~『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』を読んで~

まさかの二週間連続でこんにちは(こんばんは?)淡夏です。

すっかり夏(という名の締切)に近付いているのに、書いたもののリテイクをすべきかどうかという瀬戸際に立たされたりしています(泣)。

まずいな、こりゃ……。

 

さてさて、今回は、そんな切羽詰まって然るべき私淡夏がどはまりしているラノベの所感をば。

いつもの通り、ちょいちょいネタバレを挟んでのものなので、困る人は回れ右。

気になる人は続けてどうぞ。

それでは、以下感想。

 

 

“青春とは嘘であり、悪である。

 青春を謳歌せし者たちは常に自己と周囲を欺く。

 自らを取り巻く環境のすべてを肯定的に捉える。

 何か致命的な失敗をしても、それすら青春の証とし、思い出の1ページに刻むのだ”

(『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』1巻12頁、比企谷八幡のレポートより)

 

 

 このような出だしから始まるのが、“SUGOI JAPAN AWARD2015”ラノベ部門で堂々の一位を獲得した、渡航作『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』(以下『俺ガイル』)だ。

 ラノベ界の至宝と呼ばれる程の人気や、如何にもラノベらしい長文系のタイトルから分かるように、俺が今まで避けてきたのは仕方のないことだったと思う。

 いや、だって皆が異様に持ち上げるのも好きじゃないし、長文系タイトルのハーレムものっぽいのはちょっと……という感じで存在は知っていたもののずっとスルーしてきた。

 しかし何故それが今になってここまでの手の平クルーテオ卿な反応を見せるのか(どうでも良いけど、『アルドノア・ゼロ』のクルーテオJr.の登場はもっと伏線あった方が良かったよね)。

 きっかけは俺が勉強している横で弟にアニメ版一期を全部見せられたことにある。

 正直に言おう――面白かったのである。

 

 

 まず物語は以下の通りだ。

 主人公の比企谷八幡は生まれてこの方友達すらできたことのない、ベテランぼっちである。

 そのためか捻くれた考え方を持つようになり、常に他人と距離を置いて高校生活を送っていた。

 そんな彼は“高校生活を振り返って”という課題に対し、上記のようなレポートを提出する(ちなみにレポートの結論は、嘘や欺瞞で塗り固めた青春は悪であり、逆説的に言えばぼっちは正義であり、つまりリア充爆発しろ! という残念なものである)。

 それを見かねた結婚できない国語教師平塚先生が彼をある部へと強制入部させる。

 その名は“奉仕部”。

 部長は容姿端麗、成績優秀な完璧だけどその名の通り冷たく刺のある言動で他を寄せ付けない美少女、雪ノ下雪乃

 活動内容は「困っている人に救いの手を差し伸べる」こと(まあ要するに何でもお悩み解決部である)。

 ちなみに部員は(物語当初)雪ノ下以外はおらず、当の雪ノ下も本を読むこと以外にこれといった活動はしていない。

 基本的には読書と、雪ノ下による八幡への言葉の攻撃ばかりが続く時間の中、八幡のクラスメイトである由比ヶ浜結衣(クラスの中では上位カーストの中にいるが、常に場の空気を気にかけており、それに合わせるような行動をとっている。なお、八幡は名前どころか顔すら覚えていなかったのだが、彼女の方をしっかりと彼を認識していた。それには分けがあるのだが……)が相談にやってくる。

 二人はその依頼に応え、解決する。

 その中で遠慮のない二人のやり取りに憧れを抱いた由比ヶ浜が奉仕部の一員となり、そこから彼らの時間は少しずつ変わったのものとなっていくのだが……。

 

 

 これだけ聞くと、『僕は友達が少ない』(通称『はがない』)と似たハーレムもののラブコメ作品なのかと思うだろう。

 だが、『俺ガイル』の特徴は何よりも主人公のぼっち度にある。

 ぼっちのあまりぼっちを拗らせ、あまつさえぼっちを(半分ネタ的な意味で)哲学の域にまで昇華させる程のぼっち、それが比企谷八幡なのだ。

 どのくらいのものかと言えば、

 

 “お金持ちはプライベートジェットやプライベートビーチなどを持ちたがる。常にプライベートタイムであるぼっちは人生の勝者、つまりぼっちはステイタスというべきだ”

 (2巻12頁より)

 

 “ぼっちは平和主義者なのだ。無抵抗以前に無接触。世界史的に考えて超ガンジー

 (3巻30頁)

 

 等と残念な脳内独り語りを繰り返す程。

 これに様々なアニメ・漫画・ゲームネタを混ぜてくるものだから、オタクリテラシーの高い人は笑いが止まらなくなること間違いなし。

 

 

 と、まあネタ的な意味でも凄く面白いのだが、ただネタを羅列しただけのギャグノベルならここまでの人気は出なかっただろう。

 つまり、本題はここからだ。

 そもそも、何故八幡はぼっちになったのか。

 それは“本物”の関係を切に求めていたからだ。

 冒頭のレポートにあった“青春とは嘘であり、悪である”という考え。

 ネタのように書かれているが、これは恐らく八幡が心の底から思っていることである。

 現代社会において、人間関係を築くためには常に場の空気を読みそれに合わせ自分を偽ったり、他人に譲歩したりすることが求められている。

 リア充達はとかく“自分達は素晴らしい人生を送っている”とFacebook等に如何にも幸福そうな写真をアップし、周囲に自分は楽しんでいることを承認してもらうことでようやく、自分達が幸福であり、共に楽しんでいる仲間が掛け替えのないものなのだと納得することができる。

 だが、それは果たして尊いものなのだろうか。

 友達、恋人、家族。

 それらの言葉で縛りつけてようやく成立する関係を、“本物”と呼ぶことができるのだろうか。

 奉仕部を通じ、八幡は雪ノ下や由比ヶ浜との関係を少しずつ築いていく。

 他人に対しても容赦なくものを言う雪ノ下は、八幡にとって裏表のない付き合いのできる人物。

 場の空気を読みながらも天真爛漫に振舞う由比ヶ浜は、八幡にとって気を抜いた付き合いのできる人物。

 そんな三人で様々な人達の依頼を解決していく中で確かに、ぬるま湯につかるような心地好い時間が作られていく。

 だが、八幡の中にある彼女達の人物像もまた、彼が彼女達に押しつけたもの。

 それは、彼が嫌う欺瞞や嘘とどう違うのだろうか。

 そのような気持ちを抱えながら自問自答し、適切な距離感を導くための計算式を作り、自身の行動を当てはめていく。

 けれど、正しいと思った答えは正解などではなく、八幡は幾度となく数式を作り直す。

 そうして答えが分からなくなった彼は、適切な距離感を掴めなくなった二人に願うのだ、「俺は、本物が欲しい」(9巻255頁)と。

 

作中には他にも、重要人物としてリア充代表の完璧好青年、葉山隼人という人物がいる。

 彼は由比ヶ浜の属する上位カーストの中心人物であり、常に空気を明るい方向にもっていき、誰に対しても分け隔てなく振舞う、理想のリア充キャラなのだ(ちなみに彼は雪ノ下と幼馴染で過去に何かあったそうなのだが、現段階では具体的に何があったのか不明である。彼の異常なまでの“皆仲良く”という考えは、その出来事を発端としているようなのだが、果たして……)。

 しかし八幡とは対極にいる彼もまた、彼の人望故に築いてきた関係について思い悩むことが多い。

 考え方の違いはあれど、根本は八幡と似たところがあるように感じる。

 つまり、“本物が欲しい”と。

 

 『俺ガイル』はそんな人間関係の機微に苦しむ若者達を描いた、紛れもない“青春”ものだ。

 この“本物が欲しい”という気持ちは、リアルに生きる我々とも決して無関係なものではないはずだ。

 学生の頃は友情、恋愛、社会に出てからは仲間、家族という名前のついた関係を人は持ちたがる。

 それは一重に、自分の居場所が欲しいから。

 地に足ついていない状態というのは不安だし、ついていたとしても、その足場自体が不安定なものであってはならない。

 だから人は、皆が承認し合うことで強固なものとなる、名前のついた足場を求めるのだ。

 しかし、それは自分を何がしかの役割に当てはめることにも繋がる。

 そして時には自分を押し殺し、場の空気の奴隷と化すことすらある。

 そこまでして得た安寧に、果たして意味はあるのだろうか。

 声を大にして疑問を叫んでも、それは“皆”の声によって掻き消される。

 何て恥ずかしいやつ、皆が称賛するものを素直に受け入れられない可哀想なやつ、と。

それが、リアルだ。

 だからこそその声を、八幡の心の叫びに重ねたのだろう。

 ラノベは文学や文芸とは違い、表現が稚拙だ。

 単純な刺激を取り入れた、程度の低い娯楽なのかもしれない。

 けど、高尚なものではないからこそ、純粋な想いを自由に描くことだってできる。

 八幡の“本物が欲しい”という想い。

 そんな稚拙で、けれど切実な願いは、ラノベだからこそ、これほど多くの読者に届いたのかもしれない。

 上手くは言えないが、そういう稚拙さを極めた先に、新たな文学の可能性すら広がっているように思えてならないのだ。

 

 今後、彼らの関係がどのようなものとなるのかは分からない。

 ひょっとすると多くのハーレムもののように、所謂メインヒロインと結ばれるような終わり方をするかもしれないし、何だかんだで楽しい日々が続くような終わり方をするかもしれない。

 けれど、この作品にはそんな安易な結末を迎えて欲しくはない。

 叶わないとは分かっていても、彼ら、彼女らにとっての“本物”を見つけて欲しいと、(積み本の山を見つめながら)まだまだ程遠い結末に想いを馳せるのであった。

 

 

 

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (ガガガ文庫)

 

 

バックグランドの大切さ ~『この世界の片隅に』監督トークイベントinマチアソビに参加して~

どうもお久しぶりの淡夏です。

 テストラッシュから解放され、ようやく夢に向かっての活動に本腰を入れられそうです。

 とは言っても、勉強なんてちっともしてなかったから無駄な時間を過ごしただけなんですけどね!

 さて、今回も前回に引き続き、マチアソビで感じたこと第二弾!

 “ありがとう!クラウドファンディング目標額達成『この世界の片隅に』――作品の魅力を最新資料でご紹介”

のイベントレポートというか、感想です。

 今更感はあるかもしれませんが、気になる方はどうぞお付き合いください。

 それでは以下、一カ月前の記憶を頼りにしているので、少し事実とは違うこともあるかもしれませんが、ご了承ください。

 

 

 

 

 

 ――調べました!

 

 この日、片渕監督の口から何度この言葉を聞いたのだろう。

 スクリーンに映っていたのは原作漫画の1コマ。

 だがその後に映し出されたのは、膨大な資料の数々。

 そのほとんどが、先に出された一コマをアニメ化するために集められたものだという。

 それだけでも違う本が書けそうだと語る監督は、一体、何を作ろうと言うのだろうか。

 

 実を言えば、このトークイベントに参加するまで私は『この世界の片隅に』という作品を知らなかった。

 イベントに赴いたのも、マチアソビで最低一つは新しい作品に出会うという個人的な信条と、クラウドファンディングで製作費を集めるということに興味を持ったからだ。

 思えば、全く何の情報もなし参加すると言うのは大変失礼なことだったのだが、そこも含めてのマチアソビらしさということで勘弁して欲しい。

 それに、こうしてきちんと、この作品のファンになることができたのだから。

 

 さて、話を『この世界の片隅に』に戻そう。

 この漫画は、第二次世界大戦に向かう時代の、広島呉市で暮らす女性、北條すずの生活を描いたものだ。

 内容について今回は詳しく触れないが、決して明るいとは言えない時代に、それでもこの世界で生きた人々の想いが描かれた素晴らしい作品だ。

 憲法9条改正が騒がれるこのご時世だからこそ、色んな人が読むべき作品の一つだと想う。

 

 どうしてこの作品がここまで想いのこもった作品足り得ているのか。

 キャラやストーリーの良さというのももちろんあるが、それ以上に凄いのが背景描写だ。

 この漫画、巻末に記されているものだけでも実に48の参考文献が使用されている(他にも大和ミュージアム等の施設が紹介されていたりする。恐らく、実際はもっと多くの文献が使われたのだろう)。

 そこまで調べられているだけあって、ほんわかとした前半の空気の中にあっても、すずの暮らしは地に足ついたものとなっている。

 例えば、すずが広島市から呉にお嫁に行った後、「隣組」という昭和15年の曲の歌詞をコマの外に書いて一日の流れを描くという話があるのだが、回覧板やご近所づきあいの様子などが絵で見ただけで伝わってくる程しっかりと描かれているのだ。

 他にも食べ物であったりとか、防空壕を作る様子であたりとか、とにかく戦前の空気感をしっかりと描いているように感じる。

 作者自身は戦争経験者ではないのだが、ないからこそ、すず達の暮らしを真実のものとするために徹底的な取材の下創作を行ったのだろう。

 

 さて、そんな意思を受け継いでか、アニメ版の製作も凄いことになっている。

 

トークイベントが始まり、まず原作漫画の1コマが映し出された。

 監督の話では、漫画を映画アニメ化する時、画面の比率からそのコマの外にあるべき風景も描かなければいけないそうだ。

 漫画とはいえこの作品は現実の世界が舞台となるので、その場所を特定し絵に落とし込まなければならない。

 監督は広島に赴き、調査を開始した。

 しかし今は平成。

 作品の時代である昭和9年(原作漫画の冒頭部は幼い頃のすずの話から始まる)とは何もかもが違っている。

 手がかりなどないように思われたが、コマの角に描かれている一本の松を頼りにその場所を探しあてた。

 そして現地での聞き込みや、景観を残すための活動で作られた写真集を下に、今は失われてしまった昭和9年の広島の光景の再現を始めたそうだ(おかげでその辺りの地形にはすっかり詳しくなったようで、資料にも映されていない神社にまで話は飛んでいた)。

 

 他にも原作10頁4コマ目の町の風景。

 絵で描かれている部分の特定もさることながら、その向こう側に見えるであろう建物にも監督は目をつけた。

 何でも、漫画では遠景で見えないが、原爆の際に崩れずに残り、今でも使用されている建物があるという。

 監督はせっかくアニメ版を作るのだから、その建物もどうにかして登場させたい。

 しかし、そのためには原爆で消えてしまった周辺の状況も再現しなくてはならない。

 結果として……調べたそうである、今は失われてしまった建物までも。

 まず現存する建物の写真や記録を手に入れ、その写真で見切れてしまっている建物の端っこを手掛かりに、当時そこに住んでいた人達を探し出し、何回も絵を描いて当時の光景を再現したそうだ。

 

 そして極めつけは次の1コマ。

 原作112、113頁にまたがって描かれている戦艦ヤマトの入港シーン。

 義理の家族との関係からストレスを抱え、一度実家に帰ったすずが再び呉に戻り、落ち込んでいるところに夫が現れ、二人でヤマトを見ることで少しだけ距離が埋まるという印象的なシーンなのだが、これを見て監督は思ったそうだ。

 本当に呉にヤマトが入港した事実はあったのか、またそれは何月何日なのか。

 ――調べました!

 監督は、当時の全入港記録を手に入れexcelファイルに記入し、あまつさえ当時の気象記録から天気まで追記し、そのシーンの日付まで割り出したそうだ。

 ただ、自分達はここまで調べたのだが、原作者のこうの史代は調べたのだろうか。

 そんな疑問が監督の内に沸き起こり、対談の際に質問した。

 すると、返ってきた答えが次のものである。

 ――調べました!

 天気の記録まではどうか分からないが、とにかく、1コマ1コマに至るまでしっかりと時代が反映されていることが分かるエピソードである。

 

 他にも、もはや歴史資料が作れそうな程様々な研究成果(もはやアニメ作りのための資料の域を超えている)が、先日のマチアソビのイベントで披露されていた。

 時間の関係上、これでも他で行われたイベントよりも少ないというのだから驚きだ。

 ここまでして何を描きたかったのか。

 監督は、トークイベントの終盤でこのようなことを言っていた。

「この作品は、“この世界の片隅”から描かれたものだ。だから、その世界を描くべきだと思った」と。

 

 これは何も現実を舞台にした作品にのみ当てはまるわけではないと思う。

 架空の世界を描いたファンタジーだって、オーバーテクノロジーで描かれたSFだって、そこに生きる人々を描く以上はその人にとっての現実というものを描くことが大切なのだ。

 でなければ、その人が抱いた想いというものもどこか虚ろなものとなり、真実のものにはできない。

 設定を詰めるというのは、決して厨二病的な満足感を得たり、創作のルールを作るためだけに行うものではないのだ。

 

 我々リプロでも、現在“世界観共有創作”の企画が検討されている。

 まだどんな世界ができるのかは分からないが、できるだけ設定が面白い、以上の世界を作り上げたい。

 そして、参加してくれた方々には、そこに生きる人々の想いを描いて欲しい。

 もう一カ月も前のマチアソビの記憶を辿りつつ、そんなことを思ったのだった。

 

この世界の片隅に(前編) (アクションコミックス)

この世界の片隅に(前編) (アクションコミックス)

 
この世界の片隅に(後編) (アクションコミックス)

この世界の片隅に(後編) (アクションコミックス)

 

 

血界戦線とトライガンを見比べたにわかによるキャラクターとフレームの話

んばんは鳴向です。

最近途中から血界戦線のアニメを見始めたら面白くて、毎週の放送を心待ちにする生活を送っています。

そのつながりで、この土日、無料で電書全巻試し読みできるキャンペーンをやっていた同じ作者の前作トライガンを読んでみました。

いやーアツくて面白かったですね。

「カッコいい」とか「燃える」ってどういうことなのか~とか考えながら一気に読み切ってしまいました。

現物のコミックスも増刷かかったらしいので、今度書店で見かけたら買ってもう一回ゆっくり読みたい。

で、頭の中でこの二作品をなんとなく比較して、キャラクターとそれを活かすフレームについて考えた話などをメモしておこうとおもいます。

 

その前に、それぞれどんな話かをさくっとまとめ。

トライガン(1995-2007)

地球から遠く離れ、巨大な5つの月を持つ、さらに大きな砂漠の惑星。過酷な自然の中で、地球からの移民の子孫がどうにか暮している砂漠の星を舞台に、600億$$の賞金首、「人間台風(ヒューマノイド・タイフーン)」ことヴァッシュ・ザ・スタンピードが繰り広げるガン・アクション。

赤いコートにとんがった金髪がトレードマークのヴァッシュは、凄腕のガンマンで、とてつもなくタフで、そして筋金入りの平和主義者である気のいい青年。決して人の命を奪わず、相手が悪人であっても命を救おうと奔走し、お人好しな性格と強い信念からなる頑固さが災いして、結果として騒ぎを大きくしてしまう天性のトラブルメーカーでもあった。あまりの傍迷惑ぶりに、とうとう局地災害指定を受ける羽目になった彼には、保険会社からお目付け役が派遣される始末。しかし彼は、人類の滅亡を願う双子の兄ナイブズから、そして人間同士の諍いから、人類とその子孫を守るために荒涼とした世界を放浪していたのだった。たった一人の兄弟であるヴァッシュに執着するナイブズは、案内役として関西弁の牧師ウルフウッドを差し向け、ヴァッシュを仲間に引き入れようとする。信念の相容れない二人の兄弟の衝突は、全人類の存亡をかけた戦いを引き起こす。

 

血界戦線(2009-)

かつてニューヨークと言われた街は、異界と人界とが交差して一晩で変わり果てた。結果、異界ならではの超常日常・超常犯罪が飛び交う「地球上で最も剣呑な緊張地帯」となった街、「ヘルサレムズ・ロット」が構築される。この街は深い霧と超常現象により外界と隔離されているとはいえ、一歩間違えば人界は不可逆の混沌に飲み込まれてしまう。

そんな中、この街のいつ破れるとも知れぬ均衡を守るため、ひいては世界を守るために秘密裏に活動する者たちがいた。クラウス・V・ラインヘルツ率いる「秘密結社ライブラ」である。彼らはさまざまな能力を駆使し、吸血鬼「血界の眷属(ブラッドブリード)」を筆頭とする異界の住人と日夜戦っていた。

一方、偶然近くを訪れた半年前に巻き込まれた事件で異界のものに遭遇し、妹が自ら視力を犠牲にしたことによって救われた少年、レオナルド・ウォッチ。妹を救うすべを求めて単身でヘルサレムズ・ロットを再訪した彼は、「ライブラ」の新人と間違われたことをきっかけとして、魔神による無差別襲撃事件に巻き込まれる。異界のものから与えられた「神々の義眼」の力で事件を解決し、正式に「ライブラ」の一員に迎えられた彼は、今後妹の視力を取り戻すための情報を提供してもらうことと引き換えに、その力を使って、クラウスらとともに様々な事件(あるいは異界ならではの日常)へと挑んでいくのだった。

 

と、だいたいwikiの切り貼りですがこんな感じです。

 

トライガンを読んで最初に感じたのが猛烈な懐かしさで、未読だったはずなのになんでだろうと思ったらこの話のフレーム、ものすごくザ・90年代という感じなんですよね。良くも悪くも。

荒涼とした砂漠の星、あてのない旅、世界の滅亡、宇宙戦艦、男勝りで今は亡き年上の女性の影、天使の羽と最後の審判、戦う牧師と十字架、放浪する主人公…

一つ一つのモチーフは今でもあちこちで見られるものの、これを全部盛り込むと「あの時代の空気」から逃れられないなーというものを感じます。

なんせ連載開始が95年ですし。アニメの洗礼受けてた幼少時代…

これは古いと言いたいのではなくて、この話の面白さを最大限に享受できたのはこのフレームがぴったりくる時代だったのだろうなということです。

もちろん今読んでもめちゃめちゃ面白かったです、でも、仮にこれを今雑誌で連載を始めるのだとしたら、当時と同じだけウケるのは難しいと思います。さすがに’15ともなるとウケるフレームが変化してしまっているので。受け手側の変化の問題。

ということでもっと早く知っていればと後悔することしきり。

 

で、このトライガンに出てくる主人公ヴァッシュと相方のウルフウッドは、見ていると、血界戦線の「ライブラ」のリーダークラウスとその副官スティーブンの原形だなと思うんですよね。

ヴァッシュとクラウスは、高い理想と、それを実行する力を持つ、絶対的な理想主義者。

一方のウルフウッドとスティーブンは、掲げられた理想に共鳴しながらも、理想だけでは生きられない現実主義者で、いわゆるサポートポジション。

二組ともめちゃくちゃカッコいいんですけど、カッコよさの軸というか、キャラクターの構造は共通しているように思います。原形と言ったのはそういうことです。

で、作者はトライガンから血界戦線に移行するときに、キャラクターの構造はそのままにフレームを当代風に組み替えることで、今最適なカッコよさの演出をしているのではないかと思います。

カッコよさのアップデートを行った、という感じ。

 

トライガンは旅と星と世界の話でしたが、血界戦線のフレームは(異常な)日常、箱庭のように閉鎖された一つの街、主人公(語り部?)のレオナルドは後天的に特殊能力を与えられてはいるものの、生まれ育ちは平凡な一般人。

そしてレオナルドの動機は、与えられた「神々の義眼」の代償にされた妹の視力を取り戻すというごく個人的なもの。世界とはなんの接続も持たない。

世界を救おうとする二人のキャラクターは、そんなレオナルドがたまたま身を寄せることになる組織「ライブラ」の一員として立ち現われてきます。

 

血界戦線では、「個人」を体現したレオナルドを真ん中に置くことで「世界」を相対化している。

「世界」が自明のものではなくなって、それを直接の目的語に据えることができなくなった。

だから手に触れるものの実感で構成されたものを世界だと捉える感覚の中で、二人のキャラクターは一度レオナルドの世界に組み込まれ、その上で実体の掴めない「世界」というものを守ろうとしている、という描かれ方になっているのではないか。

というような。

たぶん、もうスマホの中に「世界」を得てしまった今となっては、ネット黎明期のあの砂漠の向こうに広大な世界が広がっていく感覚に共感することは難しくなっていて、だからヴァッシュのように彼らを主人公にするのは難しくて、むしろ一歩引きで見ることでそのカッコよさがよく分かるようになったのでは、という。

何かそんな感じの。

この辺り一番大事なのにうまく言語化できなくてもちゃもちゃ…

 

もちろん作者の中での前作との差別化とかそういう意識もあるだろうし、語り部と主人公を分けるというような手法は今までにもあることで、別に珍しいものではないです。

ただ見ていると作者はたぶん「カッコいい」についてすごく考えている人だと思うので、やはりこの見せ方は様々な角度から検討した上での最適と判断された見せ方なのではと思います。

逆にトライガンはあの時点での最適解で、だからこそ90‘sどストライクという形になったのでは、と言える気もします。

 

ということで、共通した軸を持つキャラクターだったとしても、それを取り巻くフレームをうまく組むことでもっともっとカッコよく見せることができるんだなぁと思ったのでした。

 

案外「カッコいいキャラ」の軸というのはすごく少なくて身近にあるのかもしれません。

まずはそれをしっかり捕まえねば、と思います。

それから、奇抜なキャラクターを作ろうと腐心するより、どう見たってカッコいいキャラクターの「カッコいい」を最大限活かせるフレームを考えられるようになりたいですね。

精進精進。

 

ところでトライガンの最後、「伝える」と「信頼する」ことの描き方がすごくて、キャラクターが、ただの街の人までみんな作者の手を離れて生きて動いている感じ、もしくは逆に、そういうキャラクターたちだったからこそ伝えること、信頼することがあれだけビビッドに伝わって来たのかも、と思います。

作者が解を下すのではなく、キャラクターたちを信頼して預けた、という感じ。

すごい。

あとウルフウッドの話は泣いたけど、それ以上にそのエピソードを受けてのリヴィオ編がめちゃくちゃ泣けた…あんな激アツな展開、いったいどうすれば書けるというのか…

まだまだ学べることは多そうです。

 

 

血界戦線 魔封街結社 (ジャンプコミックス)

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「人殺し」って遺伝するの?

どうも、こんばんは、綾町です。

 

最近、『戦争における「人殺し」の心理学』という本を読んでいて、疑問に思ったのがこの表題。

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この本は戦争時に起きる「人殺し」について、兵士の反応、トラウマやそれが起こる過程について心理学的にしっかり調べ上げた名著です(ただ、読んでいると決まってちょっと頭おかしい人扱いされる)。

 

この本によると、一般的に考えられているみたいには、人は人を殺すことは出来ないらしく、一般的に兵士は敵を殺すことを避けれるなら避けるらしい(第二次大戦中、アメリカのライフル銃兵はわずか15~20%しか敵に発砲していない・撃墜された敵機の三〇~四〇%は戦闘機パイロットの1%未満が撃墜したものであるなどのことがそれを示している)。

 

他にも、兵士は出来るだけ同種であるヒトを殺さないように行動すること、殺した場合酷いトラウマに襲われること、それを軍隊がどのような訓練、武器を使って克服していったかなどがこの本には示されています。

つまり、簡単に言ってしまえば、人間は本能として、同種であるヒトを殺すことにとてつもない抵抗感を示すようにコードされている(らしい)。

 

しかし、その一方でスウォンク・マーシャンの第二次大戦の研究によると戦闘中の兵士の2%は攻撃的精神病質者の素因を持っていることが分かっています(しかし、あくまで素因であり、彼らが精神病を発症しているわけではないことには注意が必要です。彼らの大半はしっかりとした理性を持っていて、その攻撃性を抑えることが出来ています)。

そして、彼らは『兵士』としてみれば非常に優秀であり、彼らのおかげで数々の戦争での勝利は得られたといっても過言ではないことが分かります(先程示したように撃墜した敵機のほとんどは数%の戦闘機のパイロットが撃墜している)。

 

 

これを読んで思い出したのが、伊坂幸太郎の『重力ピエロ』。この話では『犯罪者の遺伝子』というのが大きなテーマの一つになってます。こちらでは遺伝子だけでない、環境としてのつながりの大きさが示されています。

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逆に、こちらのニュースでは性犯罪に遺伝が関連していることが示されています(あくまで、関連だけですが)。

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犯罪者の素因が遺伝するかどうか、というのは昔から議論されて大きな問題になっていましたが、

『人を殺すことに抵抗を感じにくい』遺伝子というのは存在していて、私達の周りにもそういう人は少なからずいるんじゃないか、と思います。

けれど、人にはしっかりとした理性があって、それによってその素因は普段は抑え込まれている。それが特定の環境や状況に陥った時に初めて発揮され、大量殺人者などになってしまうのかもしれません(逆に遺伝的にそうでなくても、訓練で殺人に対する抵抗を緩和できることは近現代の軍隊が示しています)。

そして、その様な不幸な状況に陥らなかったほとんどの彼らは戦争時には私達を守ってくれる優秀な兵士になるのかもしれません。

 

といいつつも、この話は非常に難解なので、もっと深く考えて、是非、次の小説のテーマにしていきたいなーと思います。ではでは。

『ケイオスドラゴン』のイベントに参加して

もうマチアソビから一週間近く経つんですね……。

 楽しい時間もどんどん過去のものになっていくのかと思うと、どこかしんみりとした気持ちになってしまう淡夏です。

 まあ、時は不可逆だからこそ、一つ一つの想い出がかけがえのないものとなるのですよね。

 

今回は淡夏がマチアソビで感じたことを、ということで書きすすめていきたいと思います。

 とは言っても全部を全部書いてもキリがないので、僕の大好きな『ケイオスドラゴン』のイベント内容と、それに参加して思ったこと、感じたことを、リプロの活動と照らし合わせて記していきたいと思います。

 気持ちが暴走して長文となっていますが、気軽に読んでいただければ幸いです。

 それでは、以下感想。

 

 

○『ケイオスドラゴン』とは?

 

 “最高のフィクションを生みだす”という目的を掲げ発表された、星海社のRPF(Role Playing Fiction)『レッドドラゴン』を原点とした、スマホゲーム×TVアニメ×ボードゲームの連動による本格メディアミックスプロジェクトです。

 TVアニメの始まる七月から本格的な稼働となるみたいですが、これだけの規模の企画というのはやはり相当な労力を伴うものらしく、企画自体四回中断し、発案者の太田克史(星海社)の心も十回くらい折れたそうです。

 それもそのはず、スマホゲームとTVアニメそれぞれ単体で作るだけでも大変なのに、スタープレイヤー(しかも『レンタル・マギカ』の三田誠、『シャーマンキング』の武井宏之、『ローゼンメイデン』のPEACH-PIT、『ダンガンロンパ』の小高和剛、『デュラララ!』の成田良悟、『伝説のオウガバトル』の松野泰己、『デモンベイン』の鋼屋ジン、『君と彼女と彼女の恋。』の下倉バイオといった超豪華メンバー)によるボードゲーム対戦の結果を局面毎に公式HPにアップし、ノベライズし、スマホゲームに還元するという頭のおかしい企画なのです。

ちなみに、そのボードゲームは市販もされるとか。正史となるのはスタープレイヤー達の戦いですが、ファンの手でIFの歴史を作り上げることができるという楽しみもあるんですよね。本当、今から楽しみで仕方がありませんね。

 

 

○『レッドドラゴン』とは?

 

 そもそもRPFや『レッドドラゴン』って何? という方も多いかと思うので少しだけ説明を。

 TRPG(Table Talk Role Playing Game)というジャンルのゲームがあるのはご存じかと思いますが、件の企画は、オリジナルのTRPGを実力のあるクリエイター達がプレイすれば、最高のフィクションを作り出せるのでは、という太田克史の思いつきが発端となります。そして三田誠や三輪清宗、小太刀右京(共にTRPGのリプレイで活躍されている方。三輪さんは『レンタル・マギカ』の設定考証も担当されたとか。三田さんはFM(Fiction Master。まあGMみたいなものです)としてもゲームに参加)が世界設計を担当し、プレイヤーとして『Fate/Zero』、『魔法少女まどか☆マギカ』の虚淵玄、『空の境界』、『Fate/stay night』の奈須きのこ、『ミミズクと夜の王』の紅玉いづき成田良悟イラストレーターのしまどりるが参加。見て分かる通り、皆実力者ばかりです。

 詳しいことを書きだすとこれだけで別の記事ができてしまうので省きますが、完結したことも、あれだけ面白くなったのも奇跡のような作品でした。RPFという作り方の性質上、プレイヤーの思いつきやダイスの出目といった不確定要素により、完全に人の手で物語をコントロールするということは不可能となります。だからweb連載中も「面白いけど、これ本当に終わるの??」と不安になったりしたこともありました。しかしそこは流石と言いますか、見事に一つの物語として完結させたのです。

 そして生まれた物語を正史とし、新たに作られるのが今回の『ケイオスドラゴン』ということになります。ちなみにTVアニメ版はこの『レッドドラゴン』の物語を再構築したものとなるそうです。ただ、プレイヤー達が紡ぎ出した物語をなぞるのではなく、あり得たかもしれない可能性をもう一度描いたものとなるそうで、ファンだからといって、容易に先の展開を予測できないものになっているようです。そもそも『レッドドラゴン』最大の魅力は、先の展開が全く読めないところにあるので、その精神を忘れていない製作側の心意気には感服しました。本当、今から楽しみで仕方ありません。

 ちなみに、web連載時は画面スクロールで場面毎にBGMが切り替わったり、絵が変化したり、声が出たりと臨場感が半端なかったですね。BGMなんて、『オウガバトル』、『FINAL FANTASY XII』の崎元仁が手掛けてるだけあって、これこんな手軽に聞いて良いの?? と思わざるを得ませんでした。現在は四夜、五夜、六夜(上)が公開停止してしまっているので、もう同じような体験ができないようになっているのが残念です。最も、完結してしまったという事実を知っているだけで、あのハラハラ感は二度と味わうことは出来ないんですよね。真の意味でこの作品を楽しめたのは俺達だけなんだぜ。まあ、これまでのマチアソビでイベントに参加していた人が一番楽しめていたんですけどねー。本当、心底羨ましい……。

 

 

○マチアソビvol.14 トークイベント

 

 さてさて、件のトークイベントについてです。

 イベントは二回に分かれていて、一回目がボードゲーム中心、二回目がTVアニメとスマホゲームの話が中心となっていました。

 解禁された情報量が多いので、おおまかなまとめとなります。

 まず一回目。

 ボードゲームの話と言いながら、割とその他の情報も多め。

 市販されるボードゲームはテストプレイで六時間半かかったらしく、中々内容の濃いものとなっているようです。慣れれば二時間くらいで出来るようには考えていたそうですが、どんどんヘビーな内容になっていっているようで……。

 スタープレイヤーによるプレイは、七つの国に分かれての争いになるとか。そして結果が公式HPに反映され歴史となり、ノベライズとなっていくみたいです。武井先生のロボット国、松野さんの真ア○リカチックな国、PEACH-PIT先生のア○スランドな国とどのような世界情勢になるのかwktkが止まりません。PEACH-PIT先生は設定上がるのが遅くて大変だったそうですw こういう編集側の悩みが垣間見えるのもマチアソビならではですよね。

 Webも新聞風の記事でボードゲームの局面をアップしたり、縦書きのノベライズをアップしたりと、運営側が地獄を見るような贅沢仕様。これだけやって元がとれるのか心配になるレベルです。

 後は声優の古木のぞみさんのテストプレイ感想や、しまどりるさんはどれくらい594されているのか、アニメ版は? といった内容でした。しまどりるさんの594されっぷりは聞いていた以上で、何とアニメ版の脚本会議に毎回参加されているそうです。アニメは忌ブキというしまどりるさんがプレイしたキャラがメインとなるようなので、思い入れも強いんでしょうね。ただ作っただけではなく、忌ブキ本人として行動し決断し、あの結末へと辿り着いたので思い入れも一際なんでしょうね。『レッドドラゴン』連載時の紅玉さんとのツイッターでの絡みでも大切にされているんだなと伝わってきましたし。あの恩返しイラストは見て涙がほろりとしましたよ。そりゃ、紅玉さんがしまどりるさんを呼びつけたくもなる。

 脱線しましたが、一回目はこんな感じで。恐らく公開されることはないだろう、没となった案でのイラストも見れて、これだけでお腹いっぱいでした。

 二回目。

 キャスト発表から始まり、会場が練習したようなリアクションをとっていましたw 本当、ガチ勢ばっかりだったんですね、あの会場。

 キャスト一人一人に関しての感想は省きますが、婁さんの声が内田真礼というのは予想外でした。虚淵さんがプレイしていたキャラなのですが、元々は男キャラだったんですよね。それを原点とは違う、新しい物語を作りたいという三田さんの想いから、女性キャラへと変化されたとか。最初は戸惑いの方が大きかったのですが、考え無しの設定変更ではないようなので、話を聞けて安心しました。

 前述したように、物語は忌ブキがフューチャーされているようで、原点以上に酷い目に遭うとか^^; むしろ一話から酷い目に遭うとかで、本当『レッドドラゴン』らしいなとw キャストのオーディションも大変だったらしく、話題性ではなくきちんとキャラにあっているかで選んでいるそうです。SHIROBAKOで描かれた声優決める会議は断じて行っていないとかw 

 サブキャラも大御所ばかりで、本当に予算が足りるのか心配になるレベルだそうです。どこまで本気なんだよ、この企画……。

 スマホゲーの方は、スタープレイヤーの作った国を再現し、その世界の住人としてプレイするようです。

シナリオの方は『幼女戦記』のカルロ・ゼン、『ブレイク君コア』の小泉陽一郎他の執筆。スマホゲーでは初となるであろう、共和制等をテーマとした重い話になるそうです。そりゃあカルロ・ゼン先生が絡んでいるんですもんね。英雄を生んでしまったがための悲劇(?)といった感じになるとか。シナリオ量は原稿用紙で積み上げると肘くらいの高さになるそうです。それを全部チェックしている三田先生の苦労が窺い知れます……。この人、アニメとボードゲームの監修もして、型月では『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿』書いて、自分の小説も書いてるんですからね。お身体には気をつけて欲しいです。

ゲームシステム自体は『チェインクロニクル』のものにスワイプアクションを追加したものになるとか。声も普通のアドベンチャーゲームに近いくらいのテキスト量になっているらしく、他のスマホゲーみたいに手軽に遊べそうな感じではないですねw 

後は質問会で、海外展開の話もちらりと。最も、色んな利権が絡んでくるので大人なやり取りが繰り広げられているみたいです。そういうところをぽろっと溢すのも、マチアソビならではですよね。

以上、簡単にまとめましたが、実際はもっとたくさんの情報が公開されていました。これだけの情熱が込められている企画も珍しいですよね。マチアソビの飲み会で誰かが言っていたそうなのですが、これからは「ケイオスドラゴンのある暮らしが始まる」というキャッチコピーがつきそうな程のものになるそうです。一ファンとして、今から楽しみで仕方ありません。早くそのような暮らしになって欲しいものです。

 

 

○このイベントから学んだこと

 

 さて、ファンとしての感想を長々と書いてきましたが、ここからはリプロの活動と照らし合わせて思うところを少しだけ。

 現在、リプロでもサークルを挙げての世界観共有創作を企画中です。まだアイデアを出している段階なので、完成形も見えていない段階です。ですが、どうせやるなら面白いものを作りたいという気持ちではいます。今回、太田さんや三田先生の話を聞いていて、その気持ちが一番大事なのではないかと改めて思わされました。

 トークイベント中、太田さんの口から何回も聞いた言葉があります。それは「こんなに大変だって知っていたら、やっていなかった」というもの。僕の中で太田克史と言えば、とにかく「これが面白い」と思えば周りを巻き込んで突っ走る、バイタリティ溢れる人です。そんな人が、十回も心が折れたと聞いて、企画を完結させるということは生半可な気持ちでは出来ないと思い知らされました。

 そりゃあリプロのイベントは、『ケイオスドラゴン』みたいにお金がかかっているわけでも、たくさんの人を巻き込んでいるわけでも、色んな人に期待されているわけでもありません。けれど、その根底にある「これが面白い」という気持ちは変わらないものだと信じています。

 少し話は逸れますが、先日、リプロメンバーで今後の方針を話し合った時、僕は「新しい文学」を作りたいということを言いました。「新しい文学」、それが具体的にどのようなものかは未だ見えていませんが、ただ、“面白いものである”ということは外せない要素だと思います。“面白い”ということは、そう感じさせる何かがあるということ。そこにこそ、文学の今後に通じる何かが見いだせるのではないか。僕はそう思います。

 このような考えをもったのも、実のところ太田克史という人がこれまでやってきたことを受けてのことなんです。『空の境界』では“新伝綺”という言葉を作り、西尾維新を売り出すにあたっては“青春エンタ”という言葉を太田さんは生みだしてきました。これらの共通点として、「ゲームやアニメ、漫画の表現を経て、再び文芸に戻ってきたもの」という特徴があります。そんなものが文学として成り立つはずがないと考える頭の固い人は多いでしょうが、僕はそう思いません。ゲームやアニメ、漫画、ライトノベルがこれだけ栄えているのは、その“面白さ”の中にも、心を揺さぶる人間らしい何かが含まれているからだとは考えられないでしょうか。単純な娯楽として消費されるものばかりなら、名作と言われるものが生まれるはずもありません。だからこそ、それらの表現に含まれる“面白さ”を突き詰めていくことこそが、“新しい文学”に通じていくのだと思います。

 閑話休題

 今回のトークイベントでは、大変大変と言いながらも、太田さんや三田先生は「絶対に面白い」という気持ちが顔に表れていたように感じました。こんなに頭のおかしい企画をやるには、やっぱり作っている側も単純に面白いと思えるものでなければダメなんでしょうね。それが一団体の企画である以上、受け手の反応は想定しなければいけませんが、それ以上に自分達の楽しめるものでなければ、他の人が楽しむことなんてできません。

だから、これからのリプロの活動も、まず第一に自分達の“面白い”をカタチにしていくことを目標とするべきなのではないか。イベント中、そんなことが頭から離れませんでした。

 

 

○最後に

 

 何だかまとまりのない記事になってしまいましたが、以上が先日のマチアソビで得たものの一端となります。まだまだ他にも感じたものはあるのですが、とりあえずはこれくらいで。

 ここで感じたもの、得たものを次の作品に活かせるように頑張っていきたいと思います。

 ここまでお付き合いいただいた皆様、ありがとうございました。

 機会があれば、是非私達リプロの創作をよろしくお願いいたします!!