りぷろぐ

せつな系創作団体「Repro」のBlogです!

ソーシャルゲームと終わらない日常の話

こんばんは、鳴向です。

今回は特にまとまったネタというわけではないのでいつも以上にぐちゃぐちゃな文章なのですが、最近思っていることなどを書いておきます。

ここ最近いくつかのソシャゲがサービス終了するというニュースを聞きまして。これとかこれとか。
まあ、ソシャゲ戦国時代なのでサービス終了自体は珍しいことではないと思うんですけどね。
サービス終了カレンダーとか見てるとすごい虚無になれるのでおすすめ…しません。

しかし今回終わるって聞いたのはちょっと珍しい女性向けゲームだったので、サービスインした当初ポチポチやったりしてたんですが…
あのポータルに女性向けは馴染まなかったのかなぁとか、やっぱあのポータルで新しく何か始めるのは難しかったのかなぁとか、思っちゃいますね。

女性向けはネイティブアプリ?っていうんですか?アプリ単体で配信してるやつと、あとはこないだ教えてもらった「恋アリス」みたいな、アメーバ、グリーの系統が結構うまいこといってるみたいですね。
アメーバだとBF(仮)とかが代表格でしょうか。意外といっぱいあって驚きました。ユーザー層の違い…


blはBLobbyっていうポータルができてましたが、エレメンツリーのあなカレとか、俺!シリーズ、新しくリリースされたセカクレとかを見ていると最近はゲーム単位で配信してるのが多い気がしますね。


それはさておき、終わってしまうゲームに対してツイッターで、「終わらない日常話が続く内にキャラぶれを起こしてしまった」という旨のコメントを見かけて、ああなるほどなぁと思ったんです。
ちょっとその時はtl流し見しかしていなくて、誰かからRTで回ってきていたと思うのですが自分ではふぁぼRTしていなくて、もう元ツイートを見失ってしまったんですが…。

確かに、終わってしまうゲームはどちらもアイドルものの流行には乗っていたものの、中身は日常系だったんですよね。
ぶっ飛んだキャラと未知との遭遇をするんじゃなく、キャラクターとの自然な交流を軸にしていたというか…。

キャラゲーよりもシナリオゲー寄りだったって言うのがいいんでしょうか。

何というか、目に見えて難があったという感じはあまりしないんですよね。

きっとソシャゲ黎明期だったら普通にヒットしてただろうと思えるくらいには。

なんで、この辺りの不振の原因は、受け手のユーザー側の意識の変化にあるのかな~と思ったりします。

自分もいくつかソシャゲをやってますが、どうやってソシャゲと付き合っているかっていうのを考えてみると、ソシャゲの世界をAR=拡張現実として捉えてるかなという感じがします。

ARというと、ゲームに現実の画面を取り込むと、ゲームの中のキャラクターが現実の中で動いているように見せてくれるっていうvitaのゲームソフトのオプションとかがありましたが、そういう感じで、現実の上に虚構を重ねて楽しむタイプの虚構ですね。

たとえば現実ではハロウィン仮装大会ふざけんなって言いながら、ゲームの中のハロウィンイベントでは必死で走るみたいなことあるんじゃないかなって思うんですが。
現実でのイベントは楽しまないけど、ゲームでは、季節イベントがないゲームはないでしょって感じじゃないですか。
それってつまり、現実とは全く違う、切り離された仮想現実=VRを求めているのではなく、現実の延長として、現実を彩るものとしてゲームの世界を消費しているって言えるのかなと思います。


前にVRからARへというのを論じている人がいたんですが、まさしくそれだと。

VR=仮想現実、完全に現実とは別に構成されたもう一つの現実ではなく、現実の延長線上にあるAR=拡張現実。

 

ゲーム内でさらにリアルな日常を描くことは、ある意味仮想現実の構築なんじゃないかと思うんですよね。

現実という日常から、もう一つの日常への移動。

でも、終わらない日常はすぐに疲弊してしまう。

ゲーム体験ってある種お祭りみたいなとこありますからね。

ただ一方で、全くの非日常に没入するのも体力要るんですよね。

これ前に経験したんですけど、疲れてる時って造語の多いラノベとかSFが全然読めなくなって、日常を舞台にしたドラマとか少女漫画、ラブコメしか頭に入ってこないみたいな状態になるんですよ…。
それで、現状はそのちょうど中間くらいの、現実を拡張する、現状から少しだけ浮遊するような物語が求められてる、ということなのかなと思います。

あとちょっと思うのが、ブームって言われてた日常系自体に、そろそろ反作用が起こり始めている?って感じがしますね。
角川の新レーベル、

novel-zero.com

とか。

この辺の潮流が今後どうなっていくのかはやっぱり気になるところですね。

ゲームもかなり発展してきて、キャラゲーからシナリオゲーに比重が移ったりするんでしょうか。

その辺読めたら苦労しねーよって感じではありますが、もろもろ気にしつつ情報収集していきたいですね。

ではでは。

 

リプロで世界観共有企画やってます。

REPROJECT 01-世界観共有- | Repro

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【バレ有】青い瞳を見てきた話

 

お久しぶりです。鳴向です。

今回も観劇の話です。

先週、シアターコクーン「青い瞳」という舞台を観てきました。

以下、それについて思ったことなどをうにゃうにゃ言っています。

最後までネタバレしているので、ネタバレNGの方はお気を付けください。

 

公式サイトのあらすじはこんな感じでした。

『青い瞳』は、ある戦争終結後の地域社会が舞台。神経のすり減るような戦場での経験を抱えながらそれぞれの故郷に帰る兵士たち。両親と妹のもとに帰ったツトムもそうした一人だった。厳格だったはずの父は気弱な物言いしかしてこない。母は心から帰還を喜び、前のめりになるほどの勢いでツトムに「社会復帰」の大切さを説く。家族もまたどう扱っていいのか正解が見つけられず、どこか不自然だった。

そんな中、妹のミチルははつらつとした若さをぶつけるようにツトムに一点の曇りもない青春を見せてくれるが、ツトムの心は晴れない。戦場に真実があるというのではない。多くの失った戦友たちの魂を思う自分と、故郷での日々はあまりにも距離があるからだ。ミチルがチンピラグループの一員のサムとつきあっていることに気付いたが、胸にとどめることにした。

酒場で知り合ったそのグループのリーダー格の青年アライには、ばかにされたような思いと同時に敗北感さえ感じてしまう。自らの価値のありかを見失い、ふさぎ込むツトムの前に現れたのは、かつて子どものころ自分を心の迷いから救ってくれた「タカシマさん」だった…。

 

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何ゆえ私たちは働くのか~マイ・インターン感想~

 どうして働かなければいけないんだろう、と疑問に思うことがあります。

 

 世の中は21世紀。

 昔に比べて、様々なものが機械化されたし、肉体労働という意味では昔に比べてとても楽になったはずです。

 なのに、世の中からは仕事がなくなりません。減りもしてません。

 永遠に湧き出る泉のように、仕事はポンポンポンポン湧き出してきています。

 これ以上便利になんてならなくていいから、その分、仕事が減ればいいのに、と思っても悲しいかな、仕事がなくなることはありません。

 だって、資本主義社会では働かなきゃお金がもらえないから。そして、僕はまた辛い辛い労働生活へと戻っていくのです・・・。

 けれど、お金があっても働きたいと思う人もいます。

 そんな人が主人公である映画「マイ・インターン」を先日観てきました。

 

 映画「マイ・インターン」はロバート・デ・ニーロ演じる70歳元会社員のベンが衣服のネット販売会社に高齢者インターンとして応募する所から始まります。

 応募理由は時間を持て余していること、社会に居場所がないこと。そして、何より誰かに必要とされていないこと。

 彼は、アン・ハサウェイ演じる女社長ジュールズ直属のインターンとして採用されます。

 しかし、彼女は初日の面談で、あなたに任せられる仕事がないと言い放ちます。明らかに信用されていない、と感じたベンでしたが、行動あるのみと一つ一つ行動を積み重ねて、周りの信頼を勝ち得ていきます。

 一方、成功者として華々しく活躍しているジュールズも実は家庭と会社のバランスで悩んでおり・・・というのが導入部分でしょうか。

 

 正直、今年観た映画で一番!っていうくらい良い映画でした。

 まず、ロバート・デ・ニーロの渋さとかっこよさ! ハンカチは女性に貸すためにあるんだ、なんてきざな台詞に違和感がないくらいカッコいい!

 そして、アン・ハサウェイの女社長が似合いすぎる! スタイリッシュかつ少し見える弱さがすごく良かったです。

 この二人を見るだけでも十分満足できる映画でした。

 

 この映画で描かれている大きなテーマの一つは「働くこと」です。そして、この映画の登場人物にとって、それは決してお金のためだけなんかではありません。

 じゃあ、なんのため? といわれると難しいですが、この映画ではいくつもそれが描かれています。

 上司に認められるため、自分の居場所をつくるため、生活のため、自分の力を発揮するため。

 そして、主人公の一人であるジュールズにとって仕事はつまり人生です。

 ベンは映画の中でジュールズにこういいます。

「会社にとってあなたは必要で、あなたにとっても会社が必要なんだ」

 もちろん、そんな人は稀有だと思うし、そうだからこそ彼女は社長になったのです。けれど、この映画からは仕事本来の楽しさと仕事に人生を捧げることの困難さが描かれています。

 そして、ベンも映画の中では描かれてはいませんが、昔はそういう人間だったからこそ、ジュールズに共感し、応援しているのだと思います。そういう仕事に人生を捧げた孤独な二人が出会うことにこの映画の肝はあるのかもしれません。

 

 もちろん、お金のためもあるけれど、仕事ってそれだけじゃない。そして、仕事だけでもすまないのが人生だ。そういうことが分かった映画でした。

 あと、ベンに憧れて今後はハンカチを持つようにしたいと思います。

                                    綾町

小説におけるメールの終わり、LINEの始まり。

お久しぶりです。ふりゅうです。

ブログ更新を淡夏氏・鳴向氏・綾町氏に任せてサボってました・・・。

 

藤沢数希さんの『ぼくは愛を証明しようと思う。』という小説を読みました。

ざっくりあらすじを言いますと、主人公のわたなべ君(仕事はできるけど女性に全然モテない)が永沢さん(仕事の知り合い。えらくモテる)から恋愛工学(進化生物学や心理学の膨大な研究結果を基に、金融工学フレームワークを使って、ナンパ理論を科学の域にまで高めたもの・・・文中より引用)を学び、女性との付き合い方を学んでいく・・・そんな内容です。

安易な非モテサクセスストーリーと思うなかれ。思った以上に深くて読み応えのある小説でした。

 

また、『心が叫びたがっているんだ。』という映画も見てきました。

こちらの内容については淡夏氏が書いてくれているので割愛ということで。

 

『心が叫びたがってるんだ。』(以下、ここさけ)と『ぼくは愛を証明しようと思う。』(以下、ぼく愛)の共通点として、コミュニケーションのツールとしてLINEが大きく機能していることが挙げられます。

 

『ここさけ』の成瀬順は幼年時のショックで言葉を話せなくなります。

そのため周りとのコミュニケーションはほとんどがスマホを使った文字のやりとり。

LINEというワードは出てきませんでしたが、はっきりとLINEのトーク画面と思われる文字のやり取りが劇中に何度も登場しました。

 

『ぼく愛』のわたなべ君は永沢さんに連れられて夜の街へナンパに繰り出すのですが、そこで女の子から電話番号やメールアドレスなんか聞きません。連絡先として交換するのはLINEのIDなのです。小説内ではチャットのようにLINEでの会話が大量に登場します。

 

世代によって差はあるでしょうけど、若い人ほど携帯(スマホ)でメールする頻度は少ないんじゃないでしょうか。僕はほとんどメールする機会が無くなりました。LINEの方が会話のペースが速いし、スタンプも充実してるし、日常的なコミュニケーションはほとんどがLINEです。

 

これって、物書きさんにとって結構真剣に考えないといけない問題だと思うんですよ。

 

ひと昔前、携帯電話の登場、メールの登場によって、コミュニケーションの手段は大きく変化し、それに伴って小説でもそのようなアイテム・ツールを機能させる必要が出てきました。

 

例えば、現代(狭義的に2010年以降とします)日本が舞台の小説で、高校生や大学生くらいの年齢の恋人の二人が家の電話で家族の目を気にしながらデートの約束をしたりして、当日に駅の大きな柱の表裏で待っていてなかなか会えなくて・・・なんて展開は、もはや有り得ないわけです。

え、スマホは?なんですぐ連絡しないの?ってなってしまう。

 

それと同じような状況がメールとLINEにおいて起こり始めているように思うのです。

だって、今の中高生は好きな子へ送ったLINEトークの既読がついたつかないで悩むことがあっても、好きな子へ送るメールの件名で悩むことなんて、もう(ほぼ)無いんですから。

 

ここ2~3年でLINEがコミュニケーションツールとして席巻するようになりました。

僕(20代半ば)の中高生のころはメールがメインでしたから、つい簡単にメールアドレスを聞き出したり、メールを送ったりする表現を入れてしまうんですけど、これからはその辺に対して意識的になる必要が出てきているのかもしれません。

 

電話にもない、メールにもない、LINE特有のコミュニケーションのスピードとインスタント感を上手く小説に取り入れることが出来れば、そこはまだブルー・オーシャンなのかもね。

映画「バクマン。」感想-漫画家にはなれても、映画監督にはなれない-

 何にでも向き・不向きというものがある。

 

 僕は小学一年生から五年生までソフトボールをやっていたけれど、とにかく向いていなかった。

 練習も真面目に出ていたし、左目にボールをぶつけてパンダのような顔になるぐらいには一生懸命やっていたのだけれど、全くもって上手くならなかった(ボールをぶつけたのはある意味へたくそだったからだけれど)。

 当然、レギュラーにはなれず、自分よりも年下の子たちが試合に出ているのをひたすら応援している毎日だったけれど、それでもやめずにずっと続けていた。

 向いていないと気付いたのは五年生の頃だ。

 監督の気遣いで、練習試合に代打で出場した。案の定、ボールが速くて全く見えない。

「こりゃ打てないなー」と思いつつも、思いっきり振ってみると、偶然にもバットに当たった。ボールはそのままライト前まで飛んでいった。

 けれど、そのことに一番驚いていた僕は走ることを完全に忘れていて、結局、アウトになってしまった。

 そこで初めて、これは向いていないと気付いてやめた。

 けれど、それは単に向いていなかっただけなのだ。中学から始めた卓球はずっとレギュラーだったし、それなりに上達もした。ソフトボールは向いていなくて、卓球は向いていただけなのだ。

 

バクマン。」はそう言った意味で、映画に向いていない。なんせ話のメインである漫画はひたすら描く作業なのだ。アクションだったり、サスペンスだったり、ホラーだったり、そう言ったものと比べて圧倒的に画が地味だ。

 それは漫画の時も一緒だったけれど、読者と一緒に成長していく主人公、特徴的で個性あるキャラクター、パロディ、そして何より漫画家の話を漫画で描く、というところがすごく大きかったと思う。それに漫画は時間的な制限がない。映画は二時間程度の時間で完結させなければならない、という制限がある。

 だから、僕は「バクマン。」は映画に向いていないと思う。「デスノート」とは違う。わざわざ映画化する意味がそこまでないと思うのだ。

 けれど、だからと言って駄作か、というとそう言うわけではない。

 監督である大根仁は、音楽や漫画を使った映像効果を使って最大限に面白く調理していると思う。

 一番、良かったのはペンを走らせる音だ。ボールペンや鉛筆とは違う、紙を削るようなずりずりとした音が耳にすごく心地よかった。

 それに一番だれる漫画を描くシーンを比喩的な戦闘シーンに置き換えていたり、飽きさせない工夫を凝らしている。意味のないシーンは出来るだけ削って、それでもストーリーが分かるようにしている。

 役者だって、それぞれイメージにぴったりだった。特に平丸役の新井浩文は何度も笑いを取っていて、会場全体が笑いに包まれた。

 そして、細部に至るこだわりは本当にすごく、エンドロールのアイデアとこだわりは今まで観た映画の中で一番だった。

 

 やっぱりサイコ―やシュウジンは映画監督には向いていない。漫画家こそが彼らの転職だと思う。

 けど、それでも映画監督を目指してもいいんじゃないかと思う。それが成功してもしなくても。

                                   綾町 長

弱さを描いた、拙い物語~『心が叫びたがってるんだ』を観て~

連投ですが、淡夏です。

この間観たアニメ映画が思った以上に良かったので、鑑賞して感じたことを今の内に書き留めておきたいと思い更新します。

さて、今回観に行ったのは先週土曜から公開が始まったアニメ、『心が叫びたがってるんだ』です。

それでは以下感想です。

 

 

おしゃべりが大好きで夢見がちな女の子成瀬順。

幼い頃、彼女が何気なく口にした言葉がきっかけで両親は離婚してしまう。

自分が喋ると人を傷つけると思った順は、それから言葉を発せなくなり、自分の殻に閉じこもってしまうようになる。

そんな彼女は、ひょんなことからクラスメイトの坂上拓実、仁藤菜月、田崎大樹と共に高校の「地域ふれあい会」の実行イベントに任命される。

最初は嫌がっていた順だが、拓実との会話の中で、歌でなら自分の伝えたいことを表に出せることに気付き、担任の提案もあって彼女の実体験を基にしたミュージカルをすることになる。

当初はやる気のないクラスメイト達も、熱心な順達の姿に感化されクラス一丸となってミュージカルの成功へ向けて準備を進めるようになる。

その中で、順の中で少しずつ、拓実への想いが募っていくのだが……。

 

 

監督:長井龍雪、脚本:岡田磨里、キャラクターデザイン:田中将賀という『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』(以下『あの花』)を生みだした面々によって作られた本作。

あの花』が万人向けの泣かせる作品だったので、そっち方面を期待した人は多かったのではないでしょうか。

しかし『ここさけ』は万人向けの作品ではなかったと思います。

そう感じたのは、登場人物が全員繊細過ぎるからです。

 

主人公の順からして、過去のトラウマから言葉を発するとお腹が痛くなってしまう程の神経の細さなのですが、拓実も菜月も、表に出せない、自分ですらしっかりと理解出来ていない面倒くさい感情を抱え込んでいます。

彼女らの抱えるこの“言葉に出来ない、心の叫び”というのは、恐らく、どんな物事も整理して論理立てて考えることの出来る“大人”な人達には決して理解できるものではありません。

それ故に、そういう人達からすれば本作は、自分の感情を優先するクズばかりが出てくる、苛々するアニメに見えるかもしれません。

 

けれど、それこそが『ここさけ』のミソなのだとも思います。

この作品のテーマは前述した“言葉に出来ない、心の叫び”。

だから、登場人物の台詞はどれもこれも、“後、一言二言が足りない”ものばかり。

それは言っている本人達も自覚しており、だからこそもどかしさを感じ、周りにも自分にも苛々し、行き場のない想いを胸の内に燻ぶっている。

そしてそのどうしようもない想いが、論理的な積み重ねを無視し、声にならない叫びとなって物語を動かしていく。

これは、そういう作品だと思います。

 

この“言葉に出来ない、心の叫び”というのがしっかり“台詞”として活きているのが素晴らしい。

脚本家の岡田磨里さんはTVアニメ『true tears』、『花咲くいろは』、『凪のあすから』の脚本、シリーズ構成も担当されているのですが、それらの作品でも登場人物達は「何かわかんねぇけど」と曖昧な言葉を使うことが多々ありました。

曖昧ではあるんですが、そこには確かな想いがあって、しっくりとくる言葉がないからこそ、何かしらの行動に繋げていくことしか出来ない。

そういう計算だけでは再現出来ない物語展開がマリー脚本の魅力であり、それが存分に発揮されたのがこの『ここさけ』なのだと感じました。

 

『ここさけ』のマリー脚本感は主人公のキャラ造形等、随所に見られるのですが、語り出すと長くなるので今日のところはこの辺で。

万人向けの作品ではないと言いましたが、それでも僕はこの作品が大好きです。

多くの作品が人間の、心の強靭さを描く中、こういう弱さ、脆さをしっかりと愛を以て描いてくれる作品というのは、作中の彼女らと同じように弱い人にとってはある種の救いになると思うからです。

全ての人間が強いわけではないのですが、社会で生きる以上、強さこそが必要不可欠なものとして扱われ、弱いものは存在すら許してはくれません。

だからといって弱いものが強くなれるかと言えば、そうでなないでしょう。

もっと言えば、社会の求める強さが、自身の安らぎとは全く結びつかない負担の大きいだけのものとなることすらあります。

そんな人達に必要なのは、強さを押し付けることではなく、弱さを認めることです。

弱さを認めるということは、自分を認めてあげるということでもあり、自分を認めてやっと、人は自分を生きることが出来るようになるのです。

『ここさけ』のような作品は、そのきっかけになるんじゃないかなと。

なので、周囲を気にし、“言葉に出来ない、心の叫び”を抱えている人には是非観て欲しいと、そう思います。

第三回文フリ大阪終了! & 世界観共有企画『ロスト・アイ』

どうも淡夏です。

遅くなりましたが、9月22日の第三回文学フリマ大阪お疲れ様でした!! 

冊子を手にしてくださった方々はありがとうございました(^O^)/ 

願わくば、私達の作った本が皆さまのより良い時間と共にありますように。

 

今巻にはいつもの連載小説に加え、Repro初となる世界観共有企画の設定とメンバーによる小説を掲載しています。

その世界観共有企画、『ロスト・アイ』に関しては特設ページを設けましたので、是非下記のリンクを見てみてください!!

 

 REPROJECT 01-世界観共有- | Repro

 

公開方法等の情報に関しては、特設ページ、もしくは企画用ツイッターアカウント(@reproject01)にて随時報告していきますので、興味のある方はフォローよろしくお願いします!!

 

 

それにしても、文フリ大阪も今年で三年目になるんですね……。

元々このReproは、当時のメンバーが卒業記念で第一回文フリ大阪に参加するために作られたサークルでして、文フリ大阪と共に歩んできたと言っても過言ではありません。

メンバーの入れ替わりもあり、発足当時のメンバーは淡夏一人となりましたが、活動自体はこうして続いていると思うと感慨もひとしおです。

文フリ大阪の方も参加サークルが280を超える数となり、会場の盛り上がり方も一回目とは比べ物にならない程。

来年の第四回にも参加し、今よりもっと多くの人に私達の作品を読んでもらえるように頑張っていかなければなりませんね。

 

それでは、またどこかで。

企画ものの方も、参加したいと思った方は是非お願いします!!